高校野球は教育に悪い

高校野球は教育に悪い


今の高校野球、というか、
高校野球を取り巻くありよう」はあまりヘルシーではないんじゃないか。
高校野球が若者に提供するヒーロー像に不健全な効果はないのか、考えてみる。高校球児を礼讃するのは、運動神経の悪い人たちに可哀そうだろう。というレベルの話じゃなくて、誰のための高校スポーツで、普通の高校生のそれに対する態度は何であるべきか、そこを追っかけてみる。


ゴルフを除いて、30代後半〜40代が現役で大活躍できるスポーツはあまりない。
若者に人気のある野球・サッカーは活躍のピークが20代に来る。
大成するかしないかはほとんどの場合人生のかなり前半で決まってしまうわけだ。
にもかかわらず、
「野球選手になりたい」という夢を持つ10代の少年はいっぱいいて、またそう思う事が肯定され、むしろ奨励されている。
そのためにたくさんの物語と作品が提供され続けている。

その奨励は、善くはあるけど、良いんだろうか。

冷めた言い方をすれば、スポーツ選手というは例外的な人間で、その生き方にたどり着ける人間は少ない(プロ野球選手は日本で1000人もいない)。そしてリスキーですらある。だからこそ、ヒロイックな魅力がスポーツ選手にはあるんだろう。けど万人には向かない。
僕の問題意識は、そういう生き方の「偉さ」、またはその生き方が他の生き方に比べて序列的にどのように据え付けられてしまっているか、そういう外構造に向かう。

スポーツを通じて人間的な成長がある事は間違いないけど、別に高校野球を以外でも人間的な成長は得られるし、高校球児と比べて、それ以外の人たちが人間的に劣っていることがあるとも思えない。むしろ部室内のイジメで成長を妨げられた人だっているであろう事は想像できる。(その数がわかんないので「いるであろう」と言う事しかできないけど)
けどそれでもやはり、「球児」という在り様には、なにか別格な物語性が与えられている。

例えば自分の中学生の子供が「将来はゴレンジャーになりたい」と言い出したらどんな理解のある親だって全力で止めるが、くどいようだけど、日本で1000人もいない(0.0008%)「プロ野球選手に」なりたいと言い出したら止めはしないんだろう。 

どうだろうか。

ゴレンジャーと同じくらいの凄さのヒーローを描く作品。ドカベン巨人の星などなど、若者が野球を通じて成長し、それを一生の職とする、そんな物語はもう何十年も好まれ愛され、そして信じられてきている。っていうか、若者が規範とすべきロールモデルとして使われている。

ジャンプで連載されててドラマも人気だった「ルーキーズ」は不良が野球を通じて更生する話。下敷きである「スクールウォーズ」から数十年のギャップを経ても同じ主旋律をつかった物語が成立し、愛される、まさにその一連の様に、「高校球児神話」がいかに「要請」されているかが現れている。

教育の目標は「10代のヒーロー」を生み出すことではないだろう。それは確かだ。にもかかわらず子供からも大人からも「10代のヒーロー」は求められている、積極的に生産すらされている。理由の一つには、子供の世界は大人以上に序列的で、「誰が誰よりクールか、キュートか」気にされまくっているので、ヒロイックな立ち振る舞いが個人個人の願望に深く刺さる、という点もあるだろうし、教育を施す側から見れば、努力や克己という教育的キーワードがクロスオーバーするってのももちろんだ。

つまり、子供も大人も利害が一致している。だから、リアルな10代のスポーツヒーローにはいわゆる「これぞ完成された高校生」という名誉が許可されている。

僕はでも、
直観的にはこのように結果として成り立ってしまった共犯関係にキモさを見出してしまう。

以前に書いた「夢=職業ではあってはいけない」の話にもつながるけど、高校生のうちに進路を決める必要性は全くない。
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/20120617/1339916575

高校生が「とりあえず”今”興味のある大学行って、そこからテキトーに考える」のの何が悪いんだろうか。 「進路で悩んでいる」(何者になるべきか)悩んでいる高校生が多い気がするが、18歳は何か一生の事を決めるには早すぎやしないか。自分が「商社マンに向いている」のがわかったのが”商社マンになって6年”の28〜29歳頃の事の僕としては、いわゆる「進路」は何年もかけて手さぐりで探すものっていう実感があるが、なんで10代の人は今決めなきゃいけないような気がしてるんだろ。

高校球児は、あれは、別だ。これ、このように言いたい。
普通の高校生があんなにしっかりしているのは絶対に身体に悪い。
高校球児のような「直線的な努力」の若者に対する奨励は「悩み」や「彷徨い」の入り込む隙間を排除してしまうぞね。
『イジメ』と全く同じ恰好で、”『悩み』がある事は望ましい事ではない、だからゼロにしなくてはいけない”という信仰が大人にも若者にもある気がするが、そいつはおかしいだろう。イジメと同じように、悩みはあってしまうものだと考えて、それとの付き合い方について「悩む」方が僕は好きだ。

先述のとおり、スポーツ選手は20代のうちに人生のクライマックスが詰まっている職業なので、そうなりたい若者は高校生の時点で強い意志と能力の実証が必要になる。だから甲子園に出場するような球児が「完成されている」のはある意味当たり前で、それとおんなじ程度の「しっかりさ」をプロ野球選手以外の道に進む高校生に求めるのはヘルシーじゃあねぇだろう。

けど上記の共犯関係(球児を模範として努力せよ)が高校野球神話の「身体に悪さ」の前景化を許さない。
こういう格好になってしまっていると思うのです。

もう一歩踏み込んで、話を発散させる。
この一連の「高校球児神話」→「未完成な若者に対する追い立て」は単なる身体の悪さにとどまらない、もっと深刻な問題を引き起こしていると思う。それは僕が「夢の駆け込み乗車」と呼んでいる現象だ。

プロ野球選手ではないにしても、若者の心をとらえる仕事はたくさんある。例えば、音楽家、芸能人、作家、社長(笑)、などなどこういった「夢」にとにかく急いでたどり着き”直線的な努力”を行わなければ。こういう焦りと、そして、実際に駆け込むことによって「夢が無い」状況よりももっと酷い立場に追い込まれてしまう現象、これを「夢の駆け込み乗車」と呼んでる、やむしろ揶揄している。
少し前に、五反田で「社長求む!」という看板を見た、ギラギラしたフォントと色使い、高そうなスーツを着て高級外車に載っている若い男の写真、で具体的な仕事内容は書かれていない。 多少のマチュアさをもった人がみればどう考えても怪しいが、なにかこう「俺は早く社長にならねば」と焦らされている人は飛びついてしまうだろうとも想像できる、っていうか実際にいるからああいう看板を出しているのだ。

「社長募集」に飛びついて、実際には経営者とは名ばかりで、ブラック企業でこき使われたりするだけならまだましで最悪債務を背負わされたり犯罪に巻き込まれたりすることだってある。実はそういう人を知っている。

この稿は、
そういう「夢の駆け込み乗車」からおこる不幸に対し「高校野球」は責任がある。という事を言おうとしている。

そうはゆったって、高校野球は面白いし、ヒーローを求めたり、規範を示そうという行為を否定する事はできねえだろう。
そもそも、おれはもう高校生ですらないので、そんな問題意識が今ここで必要なのかって事はある。
それはわかっているので、悩んでいる、けど先述のとおり、悩みはいいもんだ。だから悩み始める事から始めるぞね。

とりあえずここまで。