人間関係を高額化させている『名言』

人生で本当に大切なこと @honto_daiji
というbotがこんな『名言』を呟いていたのを目にする

「小学校は友人関係を学ぶところ 中学校は上下関係を学ぶところ 高校は男女関係を学ぶところ 大学は人間関係を学ぶところ 社会は人との繋がりで出来てる 勉強ばっかりしてたら バカになっちゃうよ。 」
https://twitter.com/honto_daiji/status/426659319476531200

僕はこういう言葉好きじゃない、それどころか危険だとすら思う。

端的に言えば、
学校で人間関係作れなかったら人としておしまい。勉強が出来ても人間関係だめだったら喪人間まっしぐら」 って発想に人を追い込む心配があるよ
こんな風な「学校の人間関係にしがみつかないといけない」って観念がいじめの遠因なんじゃないかな。

それどころか
「人間関係とは学ぶもの」という発想が人間関係を一層「お高いモノ」にしている。高すぎて一部の人にしか買えなくなってきてるんじゃないかな
人間関係を維持するために、せっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加して、恋人の顔色を窺って、暴力的な配偶者に耐える事で「勉強よりも大事な人間関係」が”出来た”と言える
一部で起こっているそういう良くないゲームを止めたい。

この稿は、
それがどんなゲームで、そしてそのゲームを止める為の言葉がどんなのものなのかを探します。
もしその言葉が納得感のあるモノと受け止めていただいたら、明日からそれぞれの皆様の現場で「人間関係をお高くしない」ようにしていただけたらとても嬉しいのです

●人間関係はお高くなっているのか

先のBot
—世の中は人と人との繋がりで出来ていて、だから「人間関係を学ぶ」事が人生にとって勉強よりも大切な事
と言ってる

世の中は人と人との繋がりで出来ている。という点は僕の実感に照らして全く異論ない
問題は
「人間関係は学ぶモノ」という前提に隠された「良い人間関係とは努力しないと得られない難しいモノ」という脅し
そして
「人間関係は勉強より大事」という前提に隠された、強い人に有利なルール。
この二つの毒が人間関係をひどくお高いモノにしている。と僕には見える。

結論を先回りして言えば、
この稿で問題にしているような発想は、
”良い人間関係”を高く売りつけて、弱い人から色々と奪いたい強い人達に都合のいいゲームを招きこんでいる。


まず一つ目の罠について
そもそも
学校が人間関係「学ぶ所」と言うなら、
アサーティブとかコーチングとかアンガーマネジメント、多様性理解とか、学問として体系だった「コミュニケーションの技」が幾らでもあるんだからそれを教えるって発想があるはずなのに
そういう学問にもとづいた「コミュニケーションをアプローチがいわゆる学校で行われているとは聞いた事ない。
だいいち、
「学校で人間関係を学んだ」とか言いながらその成果が怪しい人が多い。
僕は「学校で人間関係を学んできました」と堂々と喋るタイプの人が『似たようなタイプの日本人としか人間関係を作れない』ケースをよく見ている。
つまり学校で”学んできた”人間関係学は外国人や考え方の違う人には通用しない、って事だ。
そんなのは学問じゃない。

つまり、
「学校で人間関係は学べる」とか言いながら、実際には誰も学んでいない。
学びだったら、そこには普遍的に使える体系だった技術の教授があるはずなのにない。
体育も国語も算数もそうやって教えられるのにそれがない。

僕らは「人間関係を学んで」いないどころか
ただ単に学校である空間と時間に閉じ込められて人間関係に晒されて
「人間関係は色々と難しい」とだけ身に覚えさせられているだけ、じゃないかな。
学びと言うよりは「人間関係を舐めると痛い目を見るぞ」と調教している。今となって思い返せば僕にはこう見える。
調教だからついて行けないと罰がある、調教についていけない人をさらし者にして「お前も手を抜くとああなる」と脅す。

簡単に言えば、僕らは人間関係をいたずらに難しくしている。

困難なものに人はコストを払わされる。
車の運転は簡単にできないから教習所に行くためのおカネを払わないといけない。
難しいモノだからお前は色々差し出さないといけない。こんな要請を正当化するのが
「人間関係は学ぶモノ」という発想。

こうやって
「良い人間関係とは努力しないと得られない難しいモノ」
と設定したうえで二つ目の毒
「人間関係は勉強より大事」
がやってくる。

勉強、
ってテスト等を通して目に見える結果が出るものだよね、だから強い人に都合が悪い。
強い人にとって都合の悪い人が「目に見えるいい結果」で世に認められる、ってのは強い人は嫌だろう。
目に見えないモノを評価する基準だったら幾らでも強い人が自由に決められる。都合の悪い人を「オレの基準にあってないから」で裁ける
つまり
「人間関係」「人間力」みたいな目に見えないモノで人間が判断されるって事は強い人の気持ち一つで人間の評価が決まる不公平な世界
「お前は人間関係が良くできていて、人間力が高い奴だ」と強い人に認めてもらえないと、僕らは「勉強よりも大事な事を身につけた」と言えない。
普通、こういうゲームをやりたいでしょうか。

一つ目の毒と二つ目の毒を合わせて言えば、
「人間関係はコストを払わなければいけない、そのコストはお前が強い人に払ってその人が認められたらお前は人間関係を修めたと言える」
こういうルールが『人生で本当に大切なこと』ってされてる。
人間関係を維持するために、せっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加して、恋人の顔色を窺って、暴力的な配偶者に耐える事で「勉強よりも大事な人間関係」が”出来た”と言える
それは嫌だとおもいません?僕は嫌です。

と、このように
—世の中は人と人との繋がりで出来ていて、だから「人間関係を学ぶ」事が人生にとって勉強よりも大切な事
という発想は
”良い人間関係”を高く売りつけて、弱い人から色々と奪いたい強い人達に都合のいいゲームを招きこんでる
そんな風に見えはしませんか

誤解無いように註しますが、
この稿は別に悪の組織が都合のいいルールを流行らせようとしている。と陰謀論を言いたいのではなく、
あくまで自然発生的に流行っている思想だと僕は考えています。
ただし、「強い人にとって都合がいいから」流行りを誰も止めないのです。強い人に都合の悪い思想は流行りません。
強い人にとって都合がいいから弱い人がこれを流行らせる、このメカニズムについては別な稿でまた考えたいです。


●本来、人間関係は高いのか安いのか
もちろん、
「いや人間関係ってのは本来難しいもので、高いどころか、これが適正な価格なんです」て議論は可能だ。
人間関係を維持するためにせっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加しなくちゃいけないものなんです。
とそのように信じる事だって自由だと思う
でも僕はそもそも人間関係に払うべきコストに「適正な価格」なんてもんがあるとは思えない。

国によって、文化によって、人によって、場面によって、「人間関係に払うべき価格」は違う。違うから海外進出する人は皆
しかも違うどころか価格ってのは両者が合意して決めるモノなはずだ。
「あなたとの関係に私がこれほど払う必要はない」と決めたらいつでもそこから去れる、それが関係ってモノの本質ではないんだろうか。

もちろん、価格だから「相場」ってのはある。あるからこそ、相場を吊り上げるって行為はゆるしちゃいけない。
「人生で一番大切な事」という綺麗ごとにかぶせて「人間関係を高く売りつけよう」とする人こそ去るべきだろ

「人間関係の為にこれくらいやってくれよ」って高い払いを求めてくる人には「この取引は無かった事に」てしていい。
それで「人間関係を学校で学んでないのか?」て問われたら
「学校は勉強する所ですよ」
って言い返して問題ないだろ。

僕はそのようにする