「夢=職業」であってはいけない

先週、こんな事をつぶやいたらRTにして1000、Favにして350以上いただきました。

”ローソンのCMで”将来の夢”として高校生が「助産婦になりたい」などの”夢”を書いたプラカードを出す奴があるが、「夢=職業」って時点でそもそもおかしい。 夢をいつの間にか”仕事”にすり替えるトリックが現代にはある。”

ローソンのレジディスプレイで繰り返し流れるCMについてコメントしたもので、
ここしばらくローソンに寄るたびにこのCMをみていたはずながら、なぜかこの日だけたまたまこのCMの内容に意識が向いて「変だぞ」って感じた。でその実感はどっから来たのかそれを少しだけ掘り下げて文にしたものが上のものです。

正直、どうしてこの文がそんな突出してツイッター内で伝播したのかわからないものの、
確かに、わりかし一般的な概念である「夢=職業」これっておかしくね?っていう気付きを誘発する効果はあるのかもしれないな、と手前味噌をひねりつつ、せっかくなのでもう少しこのCMの内容に意識がむいたとき時に感じた実感をさらに掘り下げてみます。

”夢”という文字がもっている、その厄介さ、危なさ、そしてその通貨性についてたどり着けるといいなぁ。とおもいつつ。

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さすがに1000RTもしていただけると色々返信もいただけるもので、
わりと多かったのが、”「夢=職業」でも別にいいんじゃない?”という反応でした。
だからまず「なぜ良くないのか」からとっかかりします。

①なんで「夢=職業」は批判した方がいいのか

”職業という形で夢が具体的なのはいい事では?”
という返信をいただきました、
僕は夢が具体的であればいい。とは全くもって思えないのです。

大体、
具体的な夢というのはもう夢ではなくて”目標”であって、夢としての機能を失ってしまっている。
夢は(または”夢”の語源となった現象は)本来眠っている時にみるものであって
すなわち身体がリラックスしている時に内発的に浮かび上がってくる情景、それが元来の夢の役割のはずだ。

もちろん、現代で使われる”夢”という文字は、夜よりは日中の所作について指し示す事が多い。

なにかこう、起きている時でも頭に浮かぶぼやんとした願望と言うか妄想、
「こうであったらいいのにな」という健気な祈りを思わずにいられない。
そーいう人間のありようって僕は良いと思う。

抽象的な妄想は別に悪い事じゃない。
なんらかの行動の最初の点火は、むしろうまく説明できないパッションに突き動かされて始まることが多い。

理論的、合理的に組み立てて行動を開始しようと思っても
むしろ行動を起こさない理由を色々想起してしまってかえって身体が動かない。

具体的なことしか妄想してはいけない、こーいう制約はかえって身体に悪いとすら思える。

むしろ「夢は職業でなくてはいけない」というような煽り、これはあまり人を幸福にはしないと感じるのです。
それは「俺は具体的なビジョンを持たなければいけない」というような焦りを内発させ、
ひいては
★具体的なビジョンをもっていない自分は完成されていない

こーいう息苦しさへとつながっていくのではないか。その息苦しさは大学生の就職活動の時に再度浮かび上がる。
だからよくない。

ましてやそれが人生の中で最も混乱している時期である高校生にとってそのような焦りは不要不急、むしろ害悪にもなりうる。

だって考えてみれば
具体的なビジョンが無くても大学に進むことはできる。
ていうか
具体的に考えるための材料をえるために大学に行ったっていいだろう。

高校生に職業について強く煽るのはあまりいい事じゃない。
もちろん、進学せず就職する学生もいるから一概にどうこう言う事はできないけど、
少なくともすべての高校生が職業について強いビジョンをもたなくてもいいんじゃない?

スポーツ選手はたしかには確かに高校生の時点で強く望まないとなれない。
けどそれは極端な例外。
(にもかかわらず、”甲子園”は「高校球児こそが完成された高校生」というような物語を発行しているのだが)

何になるかはわからないけど、少なくともスポーツ選手を目指す事はない。
そーいう大多数(ほとんど全員)の高校生にとって「夢=職業」である必要はない。

「夢が”助産婦”という事なんだからいいのでは?」
とこの高校生を批判すべきではないという返信もいただきましたが、
これはですね、まずもって僕はこの高校生を批判するつもりは毛頭なくて、
むしろ
「高校生が”なりたい職”を夢として発表するのは善い話だ」
と考えそれを実際にCMにして「善い話」として発表できる。
それをそうならしめている仕組みが存在する事の方を問題にしたいのです。
なぜこの仕組みが出来上がっているのか、それを下記にて考えます。


②なんで「夢=職業」という事になっているのか
最初のツイートで「夢をいつの間にか”仕事”にすり替えるトリックが現代にはある」と書きました。
これは別に、そういうトリックを仕掛けた犯人がいるっていう事を言いたいわけではないのです。

むしろもっと、けもの道的と同じように出来上がった言説なんだろうと直感する。
あんま合理的に組みあがった論理の筋道でなくても、
そこをいろんな人が通って十分踏み固められてるとついそっちのルートに入っちゃう事がありうる。
とくにその道が「楽で便利」だと尚更だ。

この言説の楽で便利な所は、
「職業を具体的に決めていない人に対して”決めている人”は優位に立つことができる」
ここに尽きる。

前述のように「夢=職業」の規定は焦りを生む。特に若い人に対し。
焦りは弱い人の特権だ。
逆に嘘でもいいから「なにがしかの職業を夢と定めた人」は焦りから解放されていて強い。
とこう見ることが出来る。

端的に言えば
「お前の夢は具体的でなく、きちんと職につくビジョンを描けてなくてイカン」
とこういう説教をぶてるから好んで使われる。

でさらにこの言説の再生産を促す仕組みとして、説教された側も
「職業を決めてしまう」事ができればいつでも説教する側に回ることができる。
だから今は弱い側も自分が強い側に回れる可能性が十分残っているためにこの言説を手放せない。

と、こーいう事なのだと思う。

③じゃあどうすればいいのか。

ここまでの話をまきとって何か結論をつけるとすれば、
僕はもうとにかくみんなでぼんやりとすべきだと思う。本来の夢の機能がそうであるように。

夢が職業のような名を持っている必要はない
こーいう焦りから解放されるのは身体にいいんだと思う。

あとは
「夢=職業」の物言いをやってくる人は信用するなと、
こういう事かなぁ。