「私生活を犠牲にして仕事を頑張った」自慢は恥ずかしい

4月に入社した新入社員たちも流石に仕事に慣れるのはもう少し先かもしれないけど、慣れるよりも早く「オレこんなに残業した」自慢を始める新入社員達は出てくるだろうな

新入社員だけではない、
オッサンにも「こんなに残業した」という事をわざわざ自慢する人たち割といる
それどころか
「仕事の為に私生活をなげうった」
「オレがこんなに仕事にうちこんだせいで家族には迷惑かけた」
と自分が「どれだけの犠牲を払ったか」を自慢げに語る人にしばしば僕は出会う

こういう物言いは自虐風自慢のつもりだろうが全く自慢になってない。
僕から見ると恥ずかしい事を喋ってる。
どうしてこういう喋りを恥ずかしいと思うべきかちょっと書かせてください


一言で言えば
モノの価値が良くわからない人はその価値を払った金額で計ろうとするから。
つまり
上のような自慢をする人は自分の仕事に価値があるのかないのかわかってない
仕事の価値を上手く説明できないから「この仕事に払った犠牲」を自慢している

わかりやすい例と対比するなら、「このバッグ 20万円なの〜」と払った金額を自慢してバッグの良さをわかってない女性とこれらのオッサンは大差ない。

もちろん別な仮説もあり得る
自分の仕事の価値が大したことないと理解しているからこそ、唯一自慢できる部分である「払った犠牲」を自慢しているのかもしれない。だとしたら事態はもっと深刻ではあるけどね

どちらにしても「仕事の為に払った犠牲」を自慢げに語る人は仕事が出来ない。

仕事が出来ないから「払った価格」そのものを「質」だと考えてしまう
このような頭の悪さを、仕事の価値がわからないのは仕方ない新入社員がともかくオッサンまでやってしまう、こういうのが普通になる事を僕はとても心配している。
というか既に十分すぎるくらいこの風潮に支配されていると僕は身の回りをみていて感じる。なんとかしたい

どうして僕はこれをなんとかしたいのか
「何かを犠牲にして働く事が素晴らしい」という世界は貧しくなる一方だから。

反対から見れば
「残業自慢」「犠牲にした自慢」は結局の所人を雇う側を有利にしているだけ
だってそうだろう
「払った金額が高ければ高い程いいモノだと思い込んでくれる客」ってのは売る側からすれば逃がしたく客。そしてここで言う「売る側」はまさに雇う側。

つまり
「残業」や「私生活の犠牲」が自慢になればなるほど雇う側の思うツボ
そのようには思えませんか

事実として
「残業を沢山頑張った人」が評価される。仕事の良し悪しとは別に。そういう会社多くないですか

さて、
商売が儲かるパターンには色々あるけど
「商売に関わって働いている人の豊かさを奪って雇う側が豊かになる」
という商売は究極的には長続きしない、流行りの言い方で言えばWin-Loseの関係だから。
長続き出来ないだけでなく、その過程でWIN-WINをやろうとしている商売を蹴散らしていく。

残るのは「いろんなものを犠牲にしたけど何も得られなかった人たち」と「彼らのプライド」だけ。

カネも残らない、資産も残らない、豊かさも何もかもこの世界から無くなる。
僕はそういう流れの中にいる事はいやです

だからこのような転倒をやっている人がいたら「恥ずかしい」と思って欲しい
それがこのくだらない貧しさの流れを止める事になるから


残業をしてしまう、私生活より仕事に打ち込んでしまう、
そのことそれ自体は起こり得るし、僕も相当それをやった(自慢ではなく)
けど
「おれ今月こんなに残業してしまったよ〜」と自慢げに語るようなものではない。
そういう事から新入社員に教えてってもいいよね。

人間関係を高額化させている『名言』

人生で本当に大切なこと @honto_daiji
というbotがこんな『名言』を呟いていたのを目にする

「小学校は友人関係を学ぶところ 中学校は上下関係を学ぶところ 高校は男女関係を学ぶところ 大学は人間関係を学ぶところ 社会は人との繋がりで出来てる 勉強ばっかりしてたら バカになっちゃうよ。 」
https://twitter.com/honto_daiji/status/426659319476531200

僕はこういう言葉好きじゃない、それどころか危険だとすら思う。

端的に言えば、
学校で人間関係作れなかったら人としておしまい。勉強が出来ても人間関係だめだったら喪人間まっしぐら」 って発想に人を追い込む心配があるよ
こんな風な「学校の人間関係にしがみつかないといけない」って観念がいじめの遠因なんじゃないかな。

それどころか
「人間関係とは学ぶもの」という発想が人間関係を一層「お高いモノ」にしている。高すぎて一部の人にしか買えなくなってきてるんじゃないかな
人間関係を維持するために、せっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加して、恋人の顔色を窺って、暴力的な配偶者に耐える事で「勉強よりも大事な人間関係」が”出来た”と言える
一部で起こっているそういう良くないゲームを止めたい。

この稿は、
それがどんなゲームで、そしてそのゲームを止める為の言葉がどんなのものなのかを探します。
もしその言葉が納得感のあるモノと受け止めていただいたら、明日からそれぞれの皆様の現場で「人間関係をお高くしない」ようにしていただけたらとても嬉しいのです

●人間関係はお高くなっているのか

先のBot
—世の中は人と人との繋がりで出来ていて、だから「人間関係を学ぶ」事が人生にとって勉強よりも大切な事
と言ってる

世の中は人と人との繋がりで出来ている。という点は僕の実感に照らして全く異論ない
問題は
「人間関係は学ぶモノ」という前提に隠された「良い人間関係とは努力しないと得られない難しいモノ」という脅し
そして
「人間関係は勉強より大事」という前提に隠された、強い人に有利なルール。
この二つの毒が人間関係をひどくお高いモノにしている。と僕には見える。

結論を先回りして言えば、
この稿で問題にしているような発想は、
”良い人間関係”を高く売りつけて、弱い人から色々と奪いたい強い人達に都合のいいゲームを招きこんでいる。


まず一つ目の罠について
そもそも
学校が人間関係「学ぶ所」と言うなら、
アサーティブとかコーチングとかアンガーマネジメント、多様性理解とか、学問として体系だった「コミュニケーションの技」が幾らでもあるんだからそれを教えるって発想があるはずなのに
そういう学問にもとづいた「コミュニケーションをアプローチがいわゆる学校で行われているとは聞いた事ない。
だいいち、
「学校で人間関係を学んだ」とか言いながらその成果が怪しい人が多い。
僕は「学校で人間関係を学んできました」と堂々と喋るタイプの人が『似たようなタイプの日本人としか人間関係を作れない』ケースをよく見ている。
つまり学校で”学んできた”人間関係学は外国人や考え方の違う人には通用しない、って事だ。
そんなのは学問じゃない。

つまり、
「学校で人間関係は学べる」とか言いながら、実際には誰も学んでいない。
学びだったら、そこには普遍的に使える体系だった技術の教授があるはずなのにない。
体育も国語も算数もそうやって教えられるのにそれがない。

僕らは「人間関係を学んで」いないどころか
ただ単に学校である空間と時間に閉じ込められて人間関係に晒されて
「人間関係は色々と難しい」とだけ身に覚えさせられているだけ、じゃないかな。
学びと言うよりは「人間関係を舐めると痛い目を見るぞ」と調教している。今となって思い返せば僕にはこう見える。
調教だからついて行けないと罰がある、調教についていけない人をさらし者にして「お前も手を抜くとああなる」と脅す。

簡単に言えば、僕らは人間関係をいたずらに難しくしている。

困難なものに人はコストを払わされる。
車の運転は簡単にできないから教習所に行くためのおカネを払わないといけない。
難しいモノだからお前は色々差し出さないといけない。こんな要請を正当化するのが
「人間関係は学ぶモノ」という発想。

こうやって
「良い人間関係とは努力しないと得られない難しいモノ」
と設定したうえで二つ目の毒
「人間関係は勉強より大事」
がやってくる。

勉強、
ってテスト等を通して目に見える結果が出るものだよね、だから強い人に都合が悪い。
強い人にとって都合の悪い人が「目に見えるいい結果」で世に認められる、ってのは強い人は嫌だろう。
目に見えないモノを評価する基準だったら幾らでも強い人が自由に決められる。都合の悪い人を「オレの基準にあってないから」で裁ける
つまり
「人間関係」「人間力」みたいな目に見えないモノで人間が判断されるって事は強い人の気持ち一つで人間の評価が決まる不公平な世界
「お前は人間関係が良くできていて、人間力が高い奴だ」と強い人に認めてもらえないと、僕らは「勉強よりも大事な事を身につけた」と言えない。
普通、こういうゲームをやりたいでしょうか。

一つ目の毒と二つ目の毒を合わせて言えば、
「人間関係はコストを払わなければいけない、そのコストはお前が強い人に払ってその人が認められたらお前は人間関係を修めたと言える」
こういうルールが『人生で本当に大切なこと』ってされてる。
人間関係を維持するために、せっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加して、恋人の顔色を窺って、暴力的な配偶者に耐える事で「勉強よりも大事な人間関係」が”出来た”と言える
それは嫌だとおもいません?僕は嫌です。

と、このように
—世の中は人と人との繋がりで出来ていて、だから「人間関係を学ぶ」事が人生にとって勉強よりも大切な事
という発想は
”良い人間関係”を高く売りつけて、弱い人から色々と奪いたい強い人達に都合のいいゲームを招きこんでる
そんな風に見えはしませんか

誤解無いように註しますが、
この稿は別に悪の組織が都合のいいルールを流行らせようとしている。と陰謀論を言いたいのではなく、
あくまで自然発生的に流行っている思想だと僕は考えています。
ただし、「強い人にとって都合がいいから」流行りを誰も止めないのです。強い人に都合の悪い思想は流行りません。
強い人にとって都合がいいから弱い人がこれを流行らせる、このメカニズムについては別な稿でまた考えたいです。


●本来、人間関係は高いのか安いのか
もちろん、
「いや人間関係ってのは本来難しいもので、高いどころか、これが適正な価格なんです」て議論は可能だ。
人間関係を維持するためにせっせと気を使って、場の空気を読んで、行きたくないイベントに参加しなくちゃいけないものなんです。
とそのように信じる事だって自由だと思う
でも僕はそもそも人間関係に払うべきコストに「適正な価格」なんてもんがあるとは思えない。

国によって、文化によって、人によって、場面によって、「人間関係に払うべき価格」は違う。違うから海外進出する人は皆
しかも違うどころか価格ってのは両者が合意して決めるモノなはずだ。
「あなたとの関係に私がこれほど払う必要はない」と決めたらいつでもそこから去れる、それが関係ってモノの本質ではないんだろうか。

もちろん、価格だから「相場」ってのはある。あるからこそ、相場を吊り上げるって行為はゆるしちゃいけない。
「人生で一番大切な事」という綺麗ごとにかぶせて「人間関係を高く売りつけよう」とする人こそ去るべきだろ

「人間関係の為にこれくらいやってくれよ」って高い払いを求めてくる人には「この取引は無かった事に」てしていい。
それで「人間関係を学校で学んでないのか?」て問われたら
「学校は勉強する所ですよ」
って言い返して問題ないだろ。

僕はそのようにする

「お前は社会に出たらやっていけない」の呪い

母子手帳には「成長曲線」という子供の身長体重が標準的かどうか一目でわかる便利なグラフがついてる。

見たことある人多いと思うけど、こういうの↓
http://pigeon.info/advice/word-1119.html


これを見れば自分の子供の発育が普通の範囲なのか「心配した方がいいのか」が一目でわかる。
今年生まれた娘は二人目の子供という事もあって、さすがに一喜一憂はしないが一人目の息子の時は細かくこれと見比べながら
「ミルクのまな過ぎて、バンドの下線をずっと這ってる」とか
「最近食べ過ぎでバンドを突き破りそう」
とか色々心配になったりもした。

普通とは何か、
こーいう子供の身長体重の場合は、厚生労働省がちゃんと統計を取って調べた疑いようのない明白な事実として提示される。

身長体重以外になるとそうはいかない。
「お礼がちゃんと言えるようになるのは何歳からか」
「友達と喧嘩しないで堪えるようになるのは何歳からか」
「言われなくても一人で勉強するのは」
「恋人ができるのは」
「初体験」
「上司の指示に従えるか」
「場の空気を読めるか」


これらについては、何歳で出来るか、何を持って出来るとするか、については議論の余地が沢山ある。
にも関わらず「これが出来るのが普通」という了解だけがある。
だからこういった基準に添えているか添えていないか、子供の身長体重の発育と同じ位の執着が発生する。
僕は二人の子供の親として経験したからよくわかるし、親でなくともこういった執着を内部外部のプレッシャーとして感じ取った事のある人は多いと思う。
「容姿の良し悪し」なんかも顕著な例

僕の問題意識は、そういった執着があること、と言うよりも
その執着を利用して他人を操ろうとする人がいる事に向かう。

正常であろうとする事、それにこだわり執着するのは悪くない事だと思う。
他人と真っ当にやっていきたいと願う正当な祈りだ。

問題は「お前は正常ではないから正常である俺に従え」と言う人の存在。

ここでやりたいのは、
一言で言えば
社会に出たことの無い子供に「お前は社会に出たらやってけない」と呪いをかけて主導権握る人の発見とその追放。
●発見
「お前は正常ではないから正常である俺に従え」という人
いるかいないか。で言えばいる。

例えばDVの加害者はこういう言葉を使う
「お前は不細工だから俺が面倒をみてやっている」
「お前は社会的に劣っているから俺から離れたらやっていけない」
「自分で部屋を借りる?キミみたいなのに不動産屋は貸してくれない」

子供に対して抑圧的な親やその教育者は
「お前は社会に出たらやっていけない」

または
「誰のおかげで暮らせてると思っているんだ」
と子供が経済的に独立できない存在であることを使って制御する

パワハラ上司は
「お前はうちの会社に見放されたらどこも雇ってくれない」

上記のセリフの幾つかは 母がしんどい [単行本(ソフトカバー)] 田房 永子から抜粋させていただきました。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4404041691?ie=UTF8&camp=1207&creative=8411&creativeASIN=4404041691&linkCode=shr&tag=s00442ts-22

とこのように、
「君は世の中の普通から外れた存在であって、
 基準の人の為に作られた世の仕組みでは救済されない」
呪いをかけてくる。

こういう技は率直に言ってアンフェアだ。
若年者、とくに子供は当たり前だけど世の中の普通に対しての情報が少ない。
にも関わらず、
普通である事への執着は老いも若きも”普通”誰もが持ってるんだから、
そこから外れる恐怖をこういう呪いで突かれたら、条件さえそろえば主導権を奪われるよね。 

じゃあ
仮に、このように呪われた対象者が正すべき「普通で無さ」を持っていたとしてだ、
どうして恐怖を持ってそれを正すのが正しいやり方と言えるのか、
「算数が出来ないと社会でやっていけない」って脅さないと人は算数を勉強しないのか
”普通”はもっとやり方がある。例えば算数の楽しさを教えるとか。

ベストでない教育法を、さもベストであるかのように用いる。なぜそうしたいか
それは自分が支配をする側に回りたいから、としか思えない。
こういう人は自分の為に世の中の正義を使っている。

僕はこのような人たち、呪術者たち、に居てほしくない。僕と僕の子供たちの為に。

●追放

ほどいてみれば、
呪術者は常に「自分が正しい側にある事」を主張する。
それを信じているか信じていないかは別にして、そうでないと自分が支配者でいる正当性が成り立たない。

こういう人たちに対して
「貴方は間違っていて、私の方が正しいので、貴方は追放されるべきだ」
と戦いを挑むのはあまりいいやり方じゃない。
何をもって普通か普通で無いか、と言うのは終わらない議論で、下手すれば負ける可能性だってあるし
大抵この手の呪術者は立場が上である事があるので普通の普通さを政治的に決められてしまう事もありうる。

かと言って
「ああ僕は普通ではないそれがどうした」
と開き直るのも良くない、「お前は普通ではない」という構造を暗に肯定している。
このやり方で戦ってきた人が大勢いるのは知っているが、僕の見る限りあまりうまく行ってない。

で、どうするか
個別個別の呪いに対して一つ一つ戦い方を考えていくとまとまらなくなるので
おぐぐりで捉えたガイドの提示だけで勘弁してもらいたい。

僕のおススメは
「普通さなんてたくさんある」「社会はお前が知っているだけではない」という多様性に呪術者を晒す事。

抽象的に言えば、
なるべく広い所へ連れて行く。人の多い所がいい、日本人が少ない所とかいいね。

呪いは大抵薄暗さや視界の悪さを利用する。
だから色んな風な光線のあたる太陽の下へ呪術者を連れ出す。

呪いは、密室でかけられる。
だから例えば家、学校、職場。そういう密室で戦いを挑まない、もしくは。代わりに広い場所、世間や、商談の場、外国で戦いを挑む。

少なくとも、
呪術者と二人きりの密室から逃げる事がまずは必要。
そういう所から戦っていきたいもんです。

「会長 島耕作」への失望

週刊モーニングで今週から「会長 島耕作」の連載がはじまった。
島耕作のような会長ではない30代の一読者として、第一回に対して期待していた事と、その失望、そしてこの物語がどのようにディズニーランド的かをお伝えしたい。

「社長 島耕作」の最終回において、島は巨額の赤字を出した責任を取って大手電機メーカーの社長を辞任し、株主総会を後にする。その足で彼女とホテルへしけこみ社長時代の苦労を癒す、と終わった。

では会長編はどう始まるのかと言うと、今度は自分が傾けた会社の会長のまま「日本経済発展の為に」財界活動に取り組むとの事。またしても癖のありそうなキャラクター達が登場し、島は「面白そうじゃないか」と意気込む。
島耕作はまだまだ偉くなるのか!」とワクワクを想起させるような構造になっている

ただ、率直に言えば、
この会長は自身の経営がどのようなものであって、どのような被害をおこしたかまるで省みていない。少なくとも省みている描写は無い。
物語内でそれほど描写されないが、島前社長の経営の結果として、多くのリストラと下請の整理と工場の閉鎖が行われ、その波紋は小さいものではなかったのだろう。

だからこそ、今までの課長時代からの努力とカタルシスが全く台無しになるような、島が全国の廃れた工場城下町を謝罪行脚するなどの贖罪の物語を期待していたが、蓋を開けてみれば今までの作品の構造を踏襲したまま「島耕作はどこまでも行く」と続いていく。

この巨額の赤字を出したのが「中小企業の社長 島耕作」だったらどうであったろうかと思うと、ゾッとする。

おそらくこの物語の想定読者であろう「これからの出世」を夢見ているサラリーマンたちにとって現実的なディストピアは突き付けられないから、「経営失敗して巨額の赤字出してもその後もわりと大手を振って活躍できるよ」と一種の救済を与えるしかない。というこの作品のやろうとしている事は理解できる。また事実としてこういった「会長」が実在しているのだから、その点からも、大変に「リアルな」漫画と言える。

ただ、それでも
自分よりはるかに年長の架空の人物に対して大変僭越ではあるが、会長島耕作は経営者としての責任や当事者意識が酷く薄い。「サラリーマン経営者」とはよく言ったもんだ。サラリーマン感覚で財界活動までやろうとしている。ただ、財界活動について私は疎いのでわからないが、実際の財界活動というのもこういった感覚で行われるものなのかもしれない。そう思えば、重ねて言うが、大変に「リアルな」漫画と言える。

ここでクルッと回転して考えると、大赤字を出して引責辞任しても、さらにその後「日本の為にかっこよく」活躍できるというのは大変にカンファタブルな世界ではある。そうやって見れば、島耕作は「こうであれかし」という大多数の日本人サラリーマンの祈りがこもったミッキーマウスのようなヒーローなのかもしれない。すなわち、島耕作という物語はサラリーマンにとってのディズニーランドだと思えば合点は行く。だから今さらミッキーが着ぐるみを脱ぐような事はできなかったのだろう。

もっとも、そのディズニーランドを実現するために払われた犠牲はあまり見向きされない。

「働かざる者食うべからず」の気持ち悪さについて


4歳の息子が最近「おてつだい」に目覚め、食器の片付けや掃除を積極的にやるようになってくれた。
俺「こうやって自分からやってくれるようになるのは本当にうれしい」
妻「あなたお手伝いを強制するの嫌いだもんね」
俺「『働かざる者食うべからず』って言葉が嫌いだからな」

それはなんでか。
長くなるので文にすることにしました。


1:『自分の働き』で『食えて』いる人はいない

自分の働きの対価として食が得られる。という文は本質的な部分で正しくない。
何故か
”ぼくの働き”だけで”ぼくの今日の食事”を得られるはずが無いからだ。
そこには過去から切々と積み上げられてきた資産やポジションや無形の資産などからの恩恵をうけている。
恩恵どころか、踏み込んで言えば「今日あなたが稼いだ額」の殆どは「あなた以外の人のおかげで」成り立ってると思った方がいい

その証拠はなにか、
極端な例を出せば、我々が一食にかける800円〜1,000円という金額を稼ぐのに一か月以上かかる国だってある。
日本人がそういった国に行って就職して一日「日本と同じように」働いても、我々が日本で得られるような食の満足を得る事は出来ない。
違うと思うなら試した方がいい。

「ぼくの今日の食事」は「ぼくの今日の仕事」程度で得られる程度の安さのものではない
食事/日々の糧はもっと尊いものだ

2:「働かざる者食うべからず」は冒涜的だ

「食べる権利」は「働く義務」と一体だ。
このように言う人もいるだろう。
権利に義務が伴う。のは本当ではあるけど。
それは『権利』を持っている人に対して「他人が」その人の権利を保証する『義務』があるってだけの話であって、
『自分の権利』を得るために『自分の義務』を果たせ、なんて等価交換的な考え方は本来おかしい。
いわんや「食う」という生存権に対してそれを果たす義務があるなんてのは生存権に対する冒涜だ。

生存は尊い。生きる自由を他人に侵されてはならない。これに反論する人はいないだろう。

生きることが尊いなら、生きるための糧も尊い筈であって。その人が糧を食ってよいかどうか、を他人が決められる、なんてのは甚だおこがましい。
大抵の宗教では糧は神に祈らないと手に入らないもんで、ただの人が他人の糧をどうこうする権利があるなんてのは糧に対して失礼だ。

人の日々の糧は先述のとおり、一個人よりももっと「おおきなもの」によって与えられている。
その事を忘れて、「お前は働いていないから食ってはいけない」と自分に他人の生存権を禁止する権利があるかのような事を言う人はどんな人なんだろう。

3:誰の為の「働かざる者食うべからず」か

お前の日々の糧を俺がどうこうできる。と言う権利が発生するのは主に主従関係だよ。それも奴隷の。
つまり「糧」が文字通り「主人」から「奴隷」に与えられている関係。
意地の悪い見方だけど「働かざるもの食うべからず」は主従関係の模倣なのかも。

他人に「食うべからず」と禁止できる人はつまりその他人の主人であると言うことになる。
事実として実際に主従関係があるかどうかにかかわらず、
「働かざる者食うべからず」を片方がいい、片方が「そうだよな」と受け入れる時
そこに力が生まれる。それは人の生殺与奪を人がどうこう出来る力。
それがまるで「在る」かのように現れる。
そういう魅力が「働かざる者食うべからず」という文にはある。

だから上述のとおり本質的に破たんした文なのにこれほど使われている。

4:破綻した文を使い続けてどうなってるのか

もっと言えば
働かざるもの食うべからず。という破綻した訓を維持するためにいろんな歪みが生じてると僕は観察する。

一言で言えば、この訓のために働いてる人の方が飯にありつける、という状況を維持する必要があって「働いてない人」を「食えない」状況に押し込む力が働くですね

働かざるもの食うべからず。なら働いても喰えなかったらおかしい。と言う発想も出る。
だからその不調和を補正するために 「価値を生み出していようが無かろうが、定時に出社して"働いてさえいれば"喰える」って構造が要望される。
それが所謂"窓際"正社員の利権なのかもね

逆に「"働いて"るけど食えない人」は『そいつらは"人間としてダメなせいで"正しく働いてないから食えない』て言説もでるよね。
これがフリーター批判の本質なのかもしれない。
フリーターが"人間としてダメではなかったら"、「正しく働いてるから食える」人たちの「正しさ」が危うくなるもんね。

このように、破綻が破綻を呼ぶ気持ち悪い文なのです。「働かざる者食うべからず」は。

5:なにをすればいいのか

ここまで、読んでいただいてこの気持ち悪さに共感していただいた人に、
じゃあどうすればいいのかを少しだけ考えたのでお伝えしたい。
まず、この言葉を使うのをやめる。次に、この言葉を使う人の近くに行かない。
むかつく言葉は発話空間から少しずつ退出させる。
それを大勢でやる。その効果はバカにならない。

ちょっとずつ、局所的にでも勝っていくしかない。

僕としては
「食わざる者、働くべからず」位の方がちょうどいいと思うのですね。こちらをむしろ流行らせたい。

どうしてアスペルガーが病気でその逆が病気じゃないのか

「未婚の母。私は別にいいと思うんだけど、それを嫌う人たちがいるからよしときなよ」
今週の安藤美姫の告白について結構みかけた反応。

これと同様な効果を持つ文として
エスカレーター。ホントは歩いちゃいけないんだけど歩く人の為に右側を開けておこう」
サービス残業。俺は良くないと思うけど、やるべきという人がいるからやりなよ」
ってのがあるよね。
しかし思う、
他人の気持ちってここまで考えるべき?

上記のように、考えなくてもいいくだらない他人の気持ちだってあるだろう。
でもこの手の発話はわりと市民権を得ている。
ていうか「他人の気持ちをわかる」事が生きるための必要条件になってしまっている。
その証拠に「他人の気持ちがわからない精神」という病気まで”発見”された。

そこでだ
なんで「他人の気持ちがわからない」事が病気で「俺の気持ちをとにかくわかって欲しい、お前が俺の気持ちをわからない方がおかしい」と願う事が病気じゃないのか。私見だけど、「アイツは俺の気持ちを理解しない」と抗議する奴の方が怖い。こういう人は他人に気持ちや空気を読んで貰わないと生きられないのか。


「他人に気持ちをわかってもらわないと満足して生きられない」という性質が誰かにもし本当にあるとしたら、それは健康的とは程遠いよ。赤ちゃんだって母乳が無くてもミルクで満足するんだぜ。
刺激的な事を言えば「他人の気持ちをわからなくても生きていける」人の方がよほど強い。
他人の気持ちを考える事が大事。という価値観はたしかに重要だけど、それっていつでもどこでも誰に対してでも当てはまるものなのかな?
包丁は便利だけど、だからといってどこへ行くにも持ち歩くもんじゃないのと同じコト。
みんな包丁を持ち歩いているせいで、冒頭のような「そこまでする必要のない他人の理解」が幅をきかす。

別な視点で言えば、
「ボールを受け取るのが下手」と「ボールを投げるのが下手」はどちらも病気じゃない。上手い人もいればそうでない人もいる。
同様に「他人の気持ちをくみ取るのが下手」な人もいれば「他人に気持ちをわかってもらうのが下手」な人もいる。
ただの能力の問題。それなのに前者を病気とするなら、後者も病気のはず。

●なんで「他人の気持ちをわかるのが下手」なのが病気になってしまうのか
人と人のつながりは「お互いの”気持ち”を理解する」事が最善で、それが出来ない人は問題を抱えている。と病気を決めている側の正当性は誰が担保してるんだろう。

痺れる言い方を許していただければ、「他人の気持ちをわかるのが下手」な人は虐げられているからかもしれない、かつて同性愛が病気だったのと同じ構造。 逆に「他人に気持ちをわかってもらわないといけない価値観」の人達はその性質ゆえに徒党を組みやすいので政治的に強くなれる。「空気が読めない人達」は「空気が読める人達/読みたい人達」に比べて、おなじ性質の人同士で団結したり一緒に戦ったりするのは苦手かもしれない。 だから「空気が読める人達の群れ」に分断され、疎外され、「健康でない」と焼印されてしまうのかも

このように
「空気の読めない人たち」と「空気の読める人たち」の政治的闘争は、そのそもそもの性質の点で前者が不利ではある。 

例えば、この世に「野球」しか他人と親睦を深められる遊びがなかったら、「野球の出来る/野球の好きな人たち」は団結出来るけど、そうでない人たちはどうやってつながればいいのか
「野球しか余暇をすごすレジャーが無い世界」で「野球が好きじゃないから」余暇を他人と過ごせない人達は”治療しなくてはいけない”というのが正義になるだろうな。 自分で仮想しといてなんだけどそんな世界の方が狂ってる。
「空気を読むことが幸福に生きるための必要条件な世界」は狂ってないのか

僕に言わせれば、「他人の気持ちをわかる人」たちが多数派で優位なだけだから「そういう事にされてしまっている」だけ。正当性はそうやって担保されている。


●なにか解決策はあるのか。冷静になって考えれば、「相手の気持ちを考える必要がある」局面ってそんなに多いんだろうか。 僕は自分の家族や親しい友達が辛い思いをしていないか、という事は強く気にするけど、仕事の交渉相手から取れるものがあるときは容赦なくとる。手心を加えるのは長期的にそれがカネになる時。職場も同じ、上司や同僚の気持ちを想像する時は自分にとってコトを有利に運ぶため。 逆に「俺の気持ちを職場の人に無条件に理解してほしい」なんて思いもしないし、逆にそのような期待を俺に向けられても困る。それは只の馴れ合い。伝えたいことがある時はデータやロジックを駆使して伝える。

だから「他人の気持ちを理解する」「空気を読む」事がいつもいつでも誰に対しても無条件に求められる、ってのは僕の見方では明らかに過剰な要求だ。
そこまでしなくても社会は回る。
前述のように「他人の気持ちを理解しよーね」という人たちが多数派だから「そうしないと回らない」という事にされているだけ。
僕は商社マンの癖に歌があまり達者ではないけど、ある日保健所から「音痴は治療可能な病気です」と小奇麗なパンフに書かれた相談窓口の案内が届いたら、「カラオケ以外にも接待はあるんじゃ!」と丸めて捨てる。事実そうだから。
だから解決策を何か提出するとしたら
「”気持ちを理解できなくても”ヒトとヒトの関係は成り立つ」って事実とその技術が開発されるべき、
って事になるのかな、
”気持ちを理解しないと人と人の関係は成り立たない”って信じこんでしまう病気の世界を治すには。

学校は「子供を大人へと治療するための」精神病院なのか

Togetterにまとめたものを文の形でまとめなおす。
http://togetter.com/li/522794

先ごろ、学生がUSJで迷惑行為を働いたことに対して神戸大学が謝罪会見をおこなった。
その謝罪はいつもの調子で報道されて、いつもの調子で発覚→炎上→謝罪の一つのループの完結として処理された。

ただ一歩引いて考えれば、
大学が学生のオフタイムの活動について「どうこうできる立場」であったとはあまり思えない。
教室の屋根が落ちてきたとか、学食から出火して怪我人がでた、とかなら学校が謝罪会見するのは全く良くわかるけど、
謝罪するって事は「学校は学生のオフタイムの活動に責任を負っており、食い止める事が出来たはずでした」という事であり、
素朴に「え、そうなの!?」と言わざるを得ない。それならもっと大学はガチガチ管理をすべきだろう。

っていうかおかしい。

こういう風に誰かが事件を起こすたびに行われる謝罪会見の中には、相当「お門違いの謝罪」も含まれていると疑われる。
ただ、そういうおかしな謝罪を「しよう」と思う人たちがいて、そういう謝罪を「よし」と受け止める人たちもいる。
この事実は結構深刻な問題を示唆していると僕は思う。

一言で言えば
「学校は子供と言う病人を収容する病院です」と言う認識が大なり小なり皆の中にあって、
それが教育や成長についての機能不全を呼び込んでいる。とこのように考えます。

どういうことか、
以下、整理を試みてみます。


1)謝罪会見はどんな時に行われていて、それは何を言わんとしているのか

学生だけでなく、会社員が業務外で起こした事件について企業が謝罪する事も無くは無いけど少ない。
痴漢で捕まる会社員は一杯いるけど、それについて会社が謝罪会見をやったという話は聞かない。もちろんインサイダー取引とかなら話は別。

「弊社は社員のオフタイムを管理すべき立場でしたけど出来てませんでした。ごめんなさい」
って言うのは雇用契約の範疇を超えた責任の取り方だろう。
謝罪するってことは「以後、社員のオフをきっちり管理します」って事?おかしいだろ
業務外に社員がどこにいて何をしているかを会社が把握し、指導し始めたら、それはもう業務外ではない。
出来るとしたらせいぜい通達を出して社員の自覚を促すくらいだ。


じゃあなんで学校は、学生の不始末を謝罪するのか。
一義的には、オフの学生についても責任がある。という認識が、学校側にも謝罪を受ける側にもある、
とこういう事だ。
生徒や社員の事件について、学校や会社が謝罪すれば納得感が生まれるのは事実。
その納得感を欲してる人たちがいて、謝罪会見がなければ誰かが血祭りになるんだから、「わかんないけど先に謝った方がいい」となるのもわからんでもない


例えば、「事件を起こさない学生を生産する」責任が学校にあるのにそれを果たせなかったから謝罪する。
とこういう事なら、
学生が卒業した後も卒業生が何かやらかす度に謝罪すべきのが製造物責任ってもんだろう。
でも、
卒業生の不始末について出身校を追求する風潮なんて聞いたこともない。

したがって、学校が追っている責任は
「在学中の学生の素行」に対してだけだ。
言い換えれば学校の任務は「在学中だけは問題をおこさせない」という事ですな。
それって教育と呼べるのか。

2)そもそも学校の仕事は何なのか
学校の
「学生が在学している間に限ってその素行全てに対し学校が責任を負っている」
と言うミッションによく似た施設がいくつかある。
例えば刑務所だ、精神病院もそうだ。

精神病棟なら「監禁すべき患者なのに監禁してなかった」 「正しく治療できてないのに外泊させて」問題を起こしたら病院の責任になる一方、
退院させてしばらくしてから問題を起こしても一応病院の責任は問われない。学校の「責任の取り方」に非常に近い。

刑務所も精神病院も共通しているのは「”問題を抱えた人”を治す施設である」という事だ。
入り口から問題を抱えた人たちを収容して、
ある基準を満たしたら出口から出す。

収容している間は、中の人たちの素行に責任があり、
監禁する事も外泊許可を出す事も出来、その判断を誤って事件を起こしたら批判される。
その代わり、一旦施設から退所させたら、退所のその日に事件でも起こさない限り
「卒業させた責任」は問われない。
そして大事な事に
「卒業を認める権限」は施設側が全面的に持っているわけではない。
刑務所ならば裁判所が決めた刑期、精神病院ならば客観的に妥当と認められる基準を満たした時。
ある種の任意性は施設側が担保していても、”特別な問題/症状が無い限り”恣意的に特定の収容者の拘束期間を延長できない。
実に学校によく似ている。

収容される側がお金を払う事になっているという点からは精神病院の方が学校の比喩としては一番適当だろう。

3)学校は「子供を大人へと治療するための」精神病院なのだとしたら、何が問題なのか
学校は「子供と言う”病人”を”大人”になるよう治療する施設」
なのだという認識が世の中に広く薄くあって、
その為治療中に患者が引き起こした災厄に学校は責任を持つ。だから謝罪会見をやれ。

という価値観には問題があるのか。
僕は問題があると考える。それはなぜか。

もちろん、
「子供たちを病人と決めつけてしまっては彼らの可能性を損なってしまう」
というユートピア的な批判も可能だ。

けど僕は問題はもっと深くにあると考える。

一つには
「治療の為ならどんな痛みを与えてもいい」
という了解が成り立ちうることだ。体罰がそれね。
次に
「症状が出ていなければ問題は治癒された」
という誤解を呼び起こす事だ。

病院にいる間は症状が治まってたけど、退院したら症状が出た。
なんてのはよく聞く話。
考えてみれば当たり前で環境管理が行き届いた病院と外界は違う。
精神病院みたいな特殊な環境だと尚更そうだろう。

学校が謝罪しなければいけないほどの「素行不良」を「症状」だとすれば、学校の初期目標はその「症状」を抑えることであり、
症状を抑えるために根本原因を取り除こうとする事はあっても、症状が無ければなにかその子の息苦しさの原因を取り除こうとは思わないからだ。
子供が鬱々とした悩みを抱えながらも、人に迷惑をかけないようにぐれずに、我慢して努力して、普通の大人になって、でも鬱々とした思いを抱えたまま。
そんなのが「いい生徒の多い学校」の目指す所なのか。

で、
さらに一歩引いて考えれば、そのような学校に「子供の体質改善」を求めるのはそもそも変だ。って考えてもいい。
極論すれば学校は勉強をしに行く所で、社会生活を学ぶ云々は副次的なもの。そういう割り切りがあった方がいい。
または
「自分を病人として扱うような人たちの手に自分の将来を委ねるのはバカバカしい。」
そのように感覚的に捉えたっていい。

教育を「治療」だと”期待”している人達がいるから、「学生の不始末の謝罪会見を学校がする」みたいなおかしな事が起きるし。
症状を努力して抑えた「普通の子たち」の悩みはつきない。

そんな学校になにかマシな事を期待するのは子供も親もよしといた方がいい。

以上で