エヴァQ 感想と考察

エヴァQみてきた。
本当は公開初日に行きたいくらいだったのだが、仕事や家事や育児が忙しくて映画館に行けたのはようやく公開一か月たってから、というこの諸事に追われる歳になってしまった自分の体たらくそれ自体が旧劇場からの時間の流れを感じさせる。


それでまあ内容はかねてからの評判通り、難解で情報過剰で、それでいて行き場のない可哀そうさに追い掛け回される、あえて分類すれば「眩暈」の楽しさのある作品だった。「破」の一本気さに痺れながらも物足りなさを感じてた人は「これだよこれ」といいたくなるだろう。

エヴァンゲリオンの不親切さ、はそれ自体が一種の様式美として完成されてる感もあるし、作品全体が議論を呼ぶように設計されているようだ。
そんなわけで用語や設定についての考察はもう出尽くしの感があるくらいネットにあふれているし、
そのあたりを掘り進むには暇もあんまりないんで、
そもそもなにをやろうとしている映画なのかについて感想も交えて書いてみる。


エヴァQはなにをやろうとしているか、
といえば、僕は物語があってそのための演出がある、という通常の映画の作法と逆に
「やりたい演出があって、そのために物語が逆算的に用意された」
映画なんじゃないかな、とまず感想した。

例えば空中戦艦。
空中戦艦をやりたい、という願望がまずあって、空を飛ばすにはエヴァ的な魔法が必要で、それを使えるのはネルフだけのはずだけどネルフは空中戦艦なんてもってないし持ってたらもっと早く出しとけよ、となる。だから敵対組織に。
っていうふうにストーリーが組み立てられたと予想する。

これと同じことが作品全体の構造においてもいえると思う。
なんでシンジは手のひらをまるっと返されるようなひどい扱いを全編をとおして受けてるのか。
これは、「意味不明で理不尽なひどい扱い」が「なぜそうなのか」と深堀をすべき考察の対象でもあるんだろうけど、
僕は「理不尽であること」それ自体が意味をもってるんだろうなと感じた。
なんでかっていうと、序盤のシンジに対する扱いが理不尽であればあるほど、中盤からのカヲルとの交流に「ここにしかいる事ができない」依存性が生まれるからだ。

ちなみに、せっかく助けたレイが冷たいのも同じ
せっかくカヲルがいるのに、レイとの関係性に逃げ込まれちゃったら、カヲルとの関係性が稀薄化しちゃうしね。

こんなふうに物語の全ての要素が「シンジがカヲルへ依存する為の必然性の創出」へと向かっていると仮定すると
エヴァ全体の「辻褄のあわなさ」がかえって辻褄が合う。

なんでこんなことをするのか?

よく考えてみると、
少年の成長を描いた物語を描くときに、なにかに逃避的に依存して、そしてそれが為に災難にあうという構図が無いと、実際の少年が通るであろう成長のみちをリアリティを持って描くことはできない。
トレインスポッティングでは薬物依存への逃避だったけど、特定の人物に依存するという構図は実はトレスポよりもリアリティがあるのではないかと思う。

実際、依存の対象としてカヲルは凄く適任だろう。
優しいし、魅力があるし、言ってることが意味深で導師的だしで、14歳くらいの女の子に社会人の彼氏がいたらこういう風に見えるんだろうな、そして溺れるくらい好きになってしまうんだろうな。

村上春樹の小説がブームになる様にも似た構造があるように見える。
優しくて、それでいて意味深で、なにか成長した気にさせられる、そういう魅力をもった対象が渇望されていて、そんでもって消費されてしまう。

エヴァQはこ−いった少年が陥りやすい依存と消費の構図を再現したかったんじゃないかな。

さて
作品はカヲルへの依存を胸やけするくらい描いてから、シンジの子供っぽい勇み足でまたしても災厄を招いてしまう。
それでも、その場に居合わせた人たちの動物的ともいえる善意で、シンジは救われる。そして放浪が始まる。

Qがやりたかった事が「依存とそれがための破たん」だとすると、この終わり方、すなわち接はなにへの伏線なんだろう。
エヴァがシンジの成長譚(それもリアリティのある)だとすると、次もいろいろ災難や理不尽を通っていき、最後は「それでもここにいていいんだ」で終わる、と
こーいう予想が成り立つけど、それでもちょっともう一段踏み込んでみたい。

エヴァQは眠っていたエヴァファンの考察欲をうまく喚起したように見える。
その受容のされ方は製作側もよく見ていると思う。
じゃあそれに対して親切に回答を次で送り出してくれるのか、って言うと、
Qで上のような構図を優先させた結果、色々と辻褄の合わないことをやっているので、それへの回答をあと1〜2回でやろうとするとひどく説明台詞が多いエンタメとしてぎりぎりの作品になってしまう気もする。

だから作品としては次も破たんするのかっていうとそうもならない、とやや信者的に願う。
いちおう根拠はある。

多分、制作側ができる最大のファンサービスは「エヴァを終わらせない」事だと僕は考える。
ある意味、今考察に熱をあげている諸兄をみるに、じつは考察に「答えが出そうで答えが出ない」状態こそが望まれているとも思う。

だから答えは
●未完のまま終わらせる
という事だと思う。

「これで最後」とも「次がある」とも言わないまま、結論を繰り越し、
10年後くらいにまた新シリーズを始める。

その時の僕は育児も終わり、多分いまとはまた違う落ち着き払った心境(または体たらく)で映画館を足を運べるんだろう。
ちょうど自分が成長する少年の時に始まった「エヴァ」という作品を
自分が親である時に「ヱヴァ」として観て、
そして自分の子がエヴァが始まった時の自分の年齢と同じ年齢になった頃
そのとき自分が求める成長譚は、いまのヱヴァともまた異なった物語なんだろうな。と。

その様こそが、まさに「終わらない成長」という実態をうまく巨大な物語として捉えられている。
そのようにも思うのです。