エイトレンジャー感想


少し前に妻に付き合って関ジャニをフィーチャーした映画『エイトレンジャー』を一緒に見た。
関ジャニはろくにメンバーの名前も知らないけども堤幸彦監督という一点のみを手掛かりに同行した。

あまり大きな期待もせずに行ったものの、見終わった後色々思うところがある事に気付いたので、需要はないと思うけど供給もあまりないと思うのでエイトレンジャーについてのうっとおしい批評を書いてみる。

今の日本で、コメディタッチのディストピアを描く為には関ジャニを配役するしかなくて、関ジャニを主食として映画を撮ったら、コメディタッチのディストピアにしかならない。そういう良く完結された機能美がみつかった。


映画のストーリーについては以下紹介サイトからそのまま引用する。

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2035年。度重なる天変地異と経済危機、治安悪化により、日本は荒廃していた。国から見捨てられた地方都市ではテロリストが勢力を持ち、略奪や誘拐が日常茶飯事的に行われており、多くの人々は希望を失っていた。そんな地方都市のひとつ・八萬市(エイトシティー)では、治安維持のために自警団・ヒーロー協会が設立される。闇金に手を出し借金取りから逃げ回っていたニートの横峯誠(横山裕)は、ヒーロー協会にスカウトされる。他に揃っているのはアルコール依存症の渋沢薫(レッド/渋谷すばる)、チェリーボーイの村岡雄貴(ナス/村上信五)、ショッピングサイトにどっぷり浸かっている丸之内正悟(オレンジ/丸山隆平)、青いものを見ると買わずにはいられない安原俊(ブルー/安田章大)、プライドばかり高い元バンドマンの錦野徹朗(イエロー/錦戸亮)、純粋で優しすぎる大川良介(グリーン/大川忠義)というやる気のないダメ人間の掃き溜めだった。横峯はそんなエイトレンジャーのリーダーを任されてしまう。

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つまり、ダメな人たちがダメな街を救うために、何かのきっかけで克己して戦う。
という定番と言えば定番のストーリー。これが堤監督独特のコメディタッチで演出される。

面白いのは”アイドルがこれをやっている”という点だ。
僕もそんなにアイドルに詳しくはないけど、そんな自分からみても関ジャニには他のアイドルグループと比べてある種の「ダメさ」があるようにみられる。
直感だけど、これが例えば光GENJIやNEWSだったら企画として成立しない恐れがある。彼らだからこそ上記のシナプシスを使えたんだと思う。

宝塚なんてみてて思うが、アイドルは元来非日常の世界から来るもので、本来崇拝すべきものに「未熟な部分がある」というのはアイドルとして「それでいいのか」と言いたくもなる。他方、90年代ごろからこーいう「等身大の」アイドルが増えてきたようにも感じる。

嚆矢はSMAPであったかもしれない。
よく言及されるが「喋れるアイドル」「コントをするアイドル」ってのはSMAP以前には相当奇異で、SMAPがその分野を切り開くまでは「アイドルはそういうものではなかった」らしい
歌番組などが終了し、歌だけでアイドルが食える時代ではなかった、という事情もあったらしい。
http://www.news-postseven.com/archives/20120826_138991.html

そういう経緯もあって、いまとなれば、芸人と同じようにトークをこなせるアイドルも珍しくないが、
その中にあっても関ジャニの位置取りは頭一つぬけていると思う。

そう思う理由は、彼らのグループ名にも埋め込まれている「関西」というキーワードだ。
僕はもともと関西に発祥した古い会社に勤めている事もあって、身の回りには関西(大阪、兵庫、奈良、京都)出身の人が多い。
その僕の観察では「関西の男」はある種の「イタさ」から逃れる事が出来ない。

よく言われるように、「おもろさ」の価値観が関西人と関東人とでは確かに違う。(それはもう自明としてここでの議論はよす)
で、その「おもろさ」の源泉を「イタさ」≒「ダメさ」に求める関西人は結構多い。
会話の中でのポジションが「S」であれ「M」であれ、なにがしかの「イタさ」をどこかしら乃至だれかしら(自分含む)に発見し、それを晒しあげてみて笑いへと転化。こーいうループを身体感覚として日頃からこなす関西人は本当に多い。

SMAPが切り開いた「おもろいアイドル」の原野に自分たちの「ダメ的な」出自との親和性を見出して入植したのが関ジャニ、とすることもできる。

さて、エイトレンジャー、
下敷きとしている世界観は、一言で言えば、若者にとっての悪夢だ。
メンバーは仕事が無く、女性にも縁が無く、おまけに能力が無くてそれがために国から見放されている。
その様の全体がメンバー個人個人の身体的なありようである「ダメさ」へと濃縮還元されていて、

「ダメ」なのは個人なのか、国が「ダメ」だから個人もダメなのか、
その辺の因果関係はあまり問題にされないように背景に押し戻されているが、時折引き出しから取り出されるように「国」についての恨みが引用されてまた仕舞われる。
その結果出来上がるのは「とりあえずなんかうまくいかない」というコメディタッチの場面と場面。
それらを関西人である関ジャニ達が演じるので、前述のようなイタさの悲壮が即笑いへと昇華するような仕組み作りが出来ている。

こーいう映画作りは巧妙ではあるけど、悲しくもあるなあ、と素朴に思う。
だってそうじゃん
やりようによっては、この物語のあらすじには階級闘争を点火する予兆があって、もっと犠牲や悲劇や矛盾がいったりきたりするワイルドな映画にも転がりかねない。
そういうベクトルを関ジャニのアイドル性がうまく制していて、そんな飛躍はゆるされない企画にしてある。
寂しい言い方をすれば、暗くなりすぎる事も明るくなりすぎる事も許されない、そもそも引き裂かれた映画。という位置づけの作品。
引き裂かれたといえば、前述のように関ジャニそれ自身が、アイドルとして輝く一方で関西人としてイタい、という作品でもある。

これをまとめて言えば、
前述したような、関ジャニが出自するアイドル性とダメ性の二面性が、この映画の喜劇性の悲劇性と相似している、とこうなるのかな。

そんでまあ、
映画の中で何回かの山場と谷場があって、最後はメンバーみんなが克己するわけで、ヒーロー物だから克己するとマイティパワーが宿って、それによって一気に事件は解決されると。
正直、どういう経緯でメンバーが克己したかは覚えていないけど、少なくとも愛とか友情とかそーいう言葉は使っていなかったと思う。覚醒をあっさり描いたのには多分理由があって、克己する過程は重要ではなくて、したことそれ自身のパフォーマンスが重要。とこういう事なんだろう。
これはアイドルだから許されるんじゃないかな、理由がパフォーマンスから遅れてやってくる、そういう芸当を並みの一般人が披露する事はあまり恰好のいいものじゃない。

踏み込んだことを言えば、この映画がターゲットである若い女の子に提供する救いはまさにこのアイドル性にある。

どうも右肩下がりっぽい時代にあって、イタさを笑い続けるってのは楽なことではない。
なんとなれば「本気で餓死しかねない」笑えない身体的なピンチだってすぐそこに迫っている人もいるだろう。
関西人の持つ天性の相対能力も、これだけ下降線が続くと、どっかで行き詰まりを迎えかねない、そういう予感がある。
この1〜2年、関西出身のお笑い芸人の「笑えない」スキャンダルが続いたのも偶然ではないかもしれない。

だから陽性を保ち続けるのはどうも無理みたいだな。そういう気がしはじめる若い世代に対して、
「いや救いはあって、僕らはそれが出来る」という事を理屈抜きで実演してみせる集団というのは貴重だ。
それがフィクションかどうかはあんまり問題じゃない。
思えば、映画の中でも克己が起こるのは、「笑いが出尽くした」暗くなるかならないかの時間切れギリギリの場面だった。

続編があるかないかはともかく、アイドルは必然的に求められる。という事を確認した映画でした。

エイトレンジャー見たい見たいとうるさい彼女がいる彼氏は、面倒くさがらずに付き合ってあげるといいと思う。