権利は義務と引き換えじゃねえよ

権利は何かと引き換えでないと得られない。という言い方に抗議をします。

生活保護の不正受給が一年前では考えられないくらいニュースになって語られている。
不正受給?していた芸人擁護する意見としては、「彼らはたくさんの税金を納めているのだからいいのではないか」なんてのもある。
一方で
飛び火するように「そもそも」 働かずに税金で養ってもらえる、のはおかしい。という語りも出てくる。
別に生活保護は戦後ずっとあった制度なんだからいまさらと言えば言えばいまさらなんだが、
なんかこう、
みんな苦労している時に楽してただ飯食ってる奴にカチンとくる、
もうこれは
健気にまっとうさを維持しようと耐えてる人たちにとっては、矜持を守るための防護反応みたいなもんで
その反応それ自体が出てきてしまうことそれ自体はあんまり批判しないし、するつもりもない。
(僕自身もまあそれなりに善き人であろうとする人の一人だといちおう自負するし)

その代り、
その感情を補強している論理を的にしたい。
正確に言えば、
生活保護受給者に対するもやぁとしたなんらかを発露したいときに、
いろんな人が脇差のようにスッと取り出す理屈。

『義務も果たさず、権利を主張するんじゃない!』
この物言い。これ。

これは使うべきではないんでないの。とこのような話を下記します。


――

権利は義務がともなう。

義務を果たしてはじめて権利を主張すべき。

権利は義務の反対語。


こうこのようにむかし習った気がする、
そしてこのように主張する人によく会う。
学校の先生や、経営者、文化人、親や、恋人、ヤクザ映画でも見た気がする。

この文を持ち出されたらどうすればいいんだろう。多くの場合ははいそうですねと会話を終わらせるしかないんじゃないか。
だって反論しづらい、こう習わされているんだし、こう信じられている。
神はいない、という事を宗教者にやっきになって説明しても仕方ない。というか意味がない。

けど、ここで僕は「いやあのですね」と句をはさみたくなる。
大げさに言えば上にあげた文は現代の生き辛さのかなりの箇所に接続されている。そんな直観がある。
だからこの公理を打ち破る、とはいかないまでもこの文で思考停止してしまうダメさから逃れる道具をいくつか並べてみたい。

そもそも、
権利と義務が対応するのはなにかの相対契約の場合だ
なんらかの契約において
甲が乙からAをうけとる権利があるばあい、乙は甲にAを渡す義務がある。
これはすごくしっくりくる。
これと同じ契約中で、
乙が甲からBを受け取る権利がある場合、甲は乙にBを渡す義務がある。
甲も乙も二人でこの契約を果たすことを約束しているのでこの時は義務と権利は確かに対になっている。

とすれば、
いわゆる社会一般の中でいう義務と権利もこれと同じに対応しているんだろうか。
一個一個展開してみる。

1:僕がしている納税の義務は、国の徴税の権利に対応している。
2:僕が果たす勤労の義務は、国や社会の報労の権利に対応している。
3:僕が得られる選挙の権利は、国が普通選挙を実施する義務に対応している。
4:僕がもっている生存権は、国のもっている生存を保証する義務に対応する。

と、
なんというかいささかの無理を感じるとともに、生存権が一体何の”俺の”義務と対応しているのかが一向に見えてこない。
僕が中学の授業をよく聞いていなかった、と言われればそれまでだが、どんな本を総動員しても生存権を「いただく」ための「なにかの」義務は見えてこない気がする。(法学部卒ではないので、このあたりの曖昧さはご容赦ください)

じゃあその中学校の授業でやるような話として、
憲法のなかで、「義務と権利」の対応について言及しているっぽい箇所を拾ってみる。
日本国憲法の設立経緯を考慮して、原文と日本語を併記します。

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Article 12.
The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.

第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

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権利と自由は努力によって保持される。

とこうなっているが、

この文はさ、
人間の権利や自由は決して自立できるものではないので、みんなでがんばって守っていこうや。
って言いたい文であって、決して
(お前の)自由や権利は(お前の)努力によって得られる。
ではないと思うんだけどどうですかね。
例えばこれが以下の文だったら、確かにマッチョな文になる。
Article 12.
「 The freedoms and rights guaranteed to "a person" by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of ”the person”」
これは多分こう訳される。
「第一二条 この憲法が個人に保障する自由及び権利は、個人の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
これは凄い。腕の血管がびっしりと脈打つような強さが伝わってくる。

たしかにこうだったら善かったんだろうけど、実際の憲法はこんなマッチョな憲法ではなく、互いの権利は互いの努力によって成り立つ。といういわば互助互恵の精神を含んだものであって、なにかをあなたに強制するものではない。ですね。


ことほどさように
義務と権利の対応はなにやら曖昧で不可視性にとんでいる。
だから権利と義務のこの交換を持ちかけられても突っぱねてもいい。

さて
ここで終わらせてもいいんだけど、以下もう少しやりますね。

こんなかんじで、権利と義務の対応を決める根拠は薄弱だ。
にもかかわらず、
冒頭に挙げた、以下の三文は公理的に流行っている。
その流行りの工学的なぶぶんの背景をばらしてみます。

権利は義務がともなう。
義務を果たしてはじめて権利を主張すべき。
権利は義務の反対語。

僕はこの文から、ある匂いを感じ取る。
それはいわゆる「交換上位主義」、市場経済の微細なパイプにして、市場以前から存在する経世の元素。
権利と義務の対応関係は、「何かをすれば何かが帰ってくる」こーいう信念に裏打ちされた概念に見える。
”応報”的な世界観を好むのは日本人にかぎらない、世界のいろんな民俗に発見することができる。
インディアンの中には、贈り物を受けたら贈り物を必ず返す強いバインドがある部族もあって、彼らは最終的には自分の家を相手の前で壊すところまで行き着かないといけない。
そもそも「婚姻」自体が一種の応報を目的とした交換活動と文化人類学では捉える事も多い。

だから、「交換」に価値を見出すのは人間の自然なありようと僕は考える。
というわけで
権利はただ単に与えられるものではなく、何かと引き換え無いと得られない。
このように見えてしまうのも無理はない。
特に権利と義務が両方憲法の中に書いてあることから、尚更両者の対応を見出したくなるのもしょうがない。

無理はない、

一応仮にも商人として禄をいただいている僕からすれば、僭越ながら「権利と義務」の関係は交換ですらない。と言いたい。

ここのあるのは難しい言葉で言えばただの恣意性なんじゃないかと思う。
恣意性というのは、合理的で説明可能な理由はないけど人が決めた繋がりの事だ。

だれが決めたかのかと言えば、それはそう決めた方が都合がいいから決まったんだろう。
というか、こーいう恣意性は強い人の願望が反映されてしまう、という方が正解に近い。
別にだれか悪意の強い人が「権利は義務と交換だから、な」とニヤリと笑って決めたわけではなく、
こういう風に使うと”便利”だからそれが多く使われる。

便利とはどういうことか。
一言でいえば、いう事を聞かせられるから、
そして、なぜ聞かさされる方はこの言説を聞いてしまうのか
交換そのものに宿るある種の不公平さに原因がある。と僕は見る。

一見交換でないようなものですら交換可能に見せてしまう。
そしてそれが当たり前のことになってしまう。そーいうヤバさが現代には多くある。
例えば、
「夢」

「努力」
努力をしないと夢が得られない、という言説の根拠は実はすごく説明の難しいもので体得に時間のかかるものなのに
「夢と努力」は対応するとものすごく広く、そして恐縮ながら気安くに信じられている。
夢も努力もどちらも曖昧な認識しかされていないので、こんなんなる。この話はまたべっと

でだ、
モノとモノの交換性とはこのように厄介で慎重な扱いが求められる。
にも関わらず、
安易な「権利と義務」の交換が発生され、強要される
ある種の暴力だ。

なんでか

それは、「交換を急ぐ」人たちがいるからではないか。
多少、商売をやってるひとなら「まず取引を、小さくてもいいから取引を新規の客とはじめる」事の重要さがわかってくれると思う。
いわゆる”口座を作る”ってやつね。
兎にも角にもいったん交換に入ることによって「関係」を生むことが出来る。

逆に言えば
交換にはいらないと関係を始めることができない。

だから
”関係”を必要としている人たちは交換を急ぐ必要がある。
本来は交換でないような交換が発生するのは、ここに原因がある。

社会の授業で、「権利と義務」の対応が飛び出すのは、
教師の仕事のひとつは子供を社会と接続する事だからだ。
(逆に、社会と接続できていない生徒を発生させると怒られるから)

まず、
権利が個人にあることを教え
つぎに
その権利は”大人の社会”と義務を交換することによって成り立つと教える。
これで教師は子供を社会と接続させる事が出来る。

また、
子供は社会との関係づくりを急がされてもいる。
「友達と遊ぶ」「親の手伝いをする」「地域のひとにあいさつをする」
さらには子供の社会のなかですら社会性のない子供をはじくような力学がある。
このような背景から考え始めると
こーいう社会関係の成立を実現させてくれるロジックに飛びつくのは”ある”と理解できる。

別な角度から言えば、
「権利」をまず教え、その権利は実は義務という対価を必要とする、とすれば
実に巧妙に”こちらの関係”に持ち込むことが出来る。
ある日セールスマンが家にやってきて、
「お宅がお使いのその空気は実は有料なのです」
とこのように来るようなものだ。

というわけでだ。
このように権利と義務は対応しない。
対応しないだけではなくて、非常にずるい使われ方をする。

でだ、ここまでの話を集めて、何か武器を作れるとすれば。
「お前のその権利は義務を果たしてからだ」
とこの文を使ってくる人は
”こちらからの関係を必要としている”
と見透かすことが出来る。

なれば「そうかい、俺の義務が欲しいなら、俺が欲しい権利をよこしな、それが出来ないならこの取引はなしだ。」
とかっこうよく言っていい。

こーいうことで。とりあえず。