まっとうさについて

まっとうさについて

今週、渋谷駅で通り魔事件があって、その犯人が週が終わる前に捕まった。
渋谷は通勤で使っている駅なので僕は事件の身近さに戦慄した。


犯人は、たぶんおかしい人なんだろう。
おかしくなくては困る。
公共空間な駅のホームでなんらか理由はあったにせよ人を刺すような人は狂っていなくてはいけない。
この人が狂っていなくて正常と言うことであったとしたら、
起きて電車に乗って会社へ行って働いて電車に乗って帰る、こーいう世界が正常であるべきなのに、その正常さには常に人が人を刺す危険が潜んでいるという事になってしまう。

で、
まあ面白い事に、いつだって人は人を刺すことがある。
というか刺すことが出来る。
刺すことができるから戦争という形がなりたつし、だから大げさに言えば人は人を刺すことが出来るからこそ今までの歴史がある。とも言える。

にもかかわらず
往来で人を刺すような通り魔は狂っている必要がある。
これはどういうことなのか。

それについて触れる話をもう一つ提出してみる。

では、次長課長の河本。
母親が生活保護を受給していた売れっ子お笑い芸人はどうなのか。
僕もテレビでみたことあるが、かれはよく整った大きい家に住んでいていわゆる「売れっ子」のイメージをそのままだった。
そんな彼の母親は”生活保護を受けるほどに”困窮していた。
これは異常、ということなんだろう。


反面、「もらえるものはもらっておくとええ」というのも
まっとうな経済的判断と言える。

事実、河本を擁護する記事も多い。
「おれたちの税金を盗むわるい金持ち」という物語の立てつけで見てしまうとこの人の前半生の困窮と複雑と気の毒さを見逃してしまう。仮に自分が河本本人になって、その人がしたような判断を自分はしない自信があるかと言うとそれはない。

にもかかわらず
「不正受給はよくない」のです。
だからこれだけのムーブメントになっている。


ありていにいっちゃうと正常さはフィクションだから、このようなふらふらした境界の発生を許してしまう。
くだけて言えば、正常さは適当に決められているので、異常さもまた適当であることを避けられない。とこういうことになる。

さて、
僕らはフィクションを体感することが出来る。
正常さを定めたのが自分であっても他人であってもそのなかに身を浸してそれに身を寄せて泳げる。スポーツのルールほど恣意的なものはないが、プロでなくともなんらかのスポーツ経験がある人はルールを身体に覚えこます事が出来る。 野球選手が捕球したあとどの塁に送球すべきかを瞬時に判断できるのは身体が野球のルールと言うフィクションを「信じ込んで」いるからだ。

だから身体知の方が言語化された知よりも正しい、とはまったくもって限らない。

左手に不浄を「感じ取ってしまう」文化もあれば、葬式の不浄を「感じ取ってしまう」文化もある。

というわけで僕らがノータイムで「うわ」と思ってしまうような狂気も、
あながちそうでもない可能性が常にある。

それはそうなんだけど、
狂っている人は狂っていて欲しい。という願いを覚えてしまう。

なんでだろうか。


それはですね、たぶん以下のような事なんだと思う。

現代は、自由で、そして最も大事なことに、人口が多い。だから、自分でない人の人生に触れる機会がビュッフェのように与えられている。 
昔だったらせいぜい自分のムラと隣のムラの住人くらいしか触れられる人生がなかったのに、今はあったことない人がどのような苦労をして、どのような辛さの中にいて、どのように成功したのか、という物語に好きなだけアクセスできる。

この機会の豊作状態は、「自分がなにであるか」という問いの前に「自分がなにでないか」という問いを大量生産してしまう。

例をだしてみる。
上には上がいる。の言葉通り、僕らは自分よりハンサムな人をいくらでもテレビやネットの中で見つける事ができる。
女の子なら自分より美人をいくらでも見つける事が出来る。なんとなれば広告は美人だらけだ。
有能な人も、面白い人も、すごい人も、「自分を持っている人も」、たくさんたくさん見つけられる。そういう人たちがどのような人であって、どのように育って、どのように考えている。こーいう情報に光の速さで触れる事が出来る。
このような自分の人生を計るための物差しがよりどりみどりの環境ってどうなんだろう。
どの物差しも、どの自分に対しても、しっくりこないことはおおよそ間違い無い。


こんなかんじの比較と失望の絶えざる反復の中では、〝ありうべき″人生とはおそらくラスベガスのように騒々しくて虚飾な善い街とそっくりになる。

ここまでの話をここで引き取ると、
僕らの正常さ、まっとうさは、まるで何百キロのマグロから、「大トロではない」部分だけを取り捨てて出来上がった大トロみたいに限定的で希少で危うい「少なさ」から逃れる事ができない。

少ない、という事はいつなくなってしまうかわからない、ということだ。
だから自分がなんなのかわからない。というお話がありふれるくらいあふれている。

いつなくなってしまうかわからないのであれば、
今までの反復をそのまま演じて
「いやこれは自分ではない、よって、これでないものが自分である」
とこのような態度がでてくるのでは、と僕は考えている。

というわけで、
頻繁に、まっとうでない狂った人生についての物語をエサとして必要としている。
それが、
多くの人が欲していて事実その通りに生きている、〝狂気のない人生″の自然な姿だ。

とこのようにおくと、
通り魔それ自体は通勤風景が定期的に欲す必要条件となるですね。

そいつはちょっとこわいな。

このへんで