進化論は進化せよ

仕事の場などで議論になったさいにあっという間に全員の合意がとれるケースがある。
それは「こっちのやり方なら同じものが安くなります」という結論が明白になる場合だ。
安くなる特に僕みたいな商人には非常に魅力的な結論だ。

安価は高価を駆逐する
たとえば四国への連絡橋が安くなった結果、あのあたりのフェリー会社が淘汰されまくった。
こういう風に世界は未来にむかって安くなっていく
これを敷衍すると、社会は進化する となる。
進化

進化論それ自体が自然選択の寵愛を受けている。
誰もキリンの首が伸びるところを見ていないのにキリンは進化で首を伸ばしたと信じられている
進化論は人間の思想の中でも社会主義と同じ程度に若い
一方で交配技術の古さからもわかるように
遺伝というものそれそのものは古代から認識されてきた。
にもかかわらず「適者適存」という思想に到達するのに数千年かかってる
ここに僕はなにかあるのを感じる
そして進化論のみでなくそれを下支えする「正しさ」
これに僕は用がある
結論を先取りして言えば、
僕は進化論にヤバさを感じている。うまく説明できるかわからないけど
そして進化論を支持している「正しさ」も同様に裁きたい。

ではまいります。


まず、いっこやっておくべき作業がある。
この稿で批判したいのは"ダーウィンの進化論"ではなくて
日常生活で「進化論」と口にのぼる言葉の指し示す内容の事だ。という事をはっきりさせておく。

その点も踏まえて言えば、「進化論」は「脳科学」に似ている。その言葉の用いられ方も。
脳科学」が医学ではないのと同程度に「進化論」が自然科学なのかの疑わしさがある。
にもかかわらず、脳科学のそれっぽさと同じくらいのそれっぽさが進化論にある。

例えば、進化論は未来の予測が苦手、または出来ない。
ある瞬間の動物種の集団を見て、それらがどう進化するのか
その予測の正しさが疑わしい。
例えば、紀元前1億年の動物の群れを観察して
1億年後どのように進化しているのかを科学的に積み上げた研究を僕は寡聞にして知らない。

科学の目指すところが「予測と制御」にあるのならば、
進化論は予測もできなければ、制御も怪しい。
ちなみに身体の小さい犬や、美味しい牛をつくるのは交配技術であって進化論とは関係ない。




てすと
やっかいなのは進化論が
良いものでない限り生き残れない
という要請を投げ掛けてくることだ

ダーウィンが適者適存をとなえてから
それがよに認められるまでしばらくかかったが
その後のナチスの台頭まであまり日がたってない

ナチス後は進化論の
「多様性の価値」という側面
実はこれも変っちゃ変だ

最終的には
進化の主体は生命ではなく生命を実現している遺伝子である
ドーキンスが唱えるにいたる
この説自体は読み物として面白い
ミームの概念など大事な示唆が詰まっている

僕が進化論にたいして感じている違和感は
そのあまりの原理の単純さと
そのあまりの説明汎用性の高さだ

まるでニュートン力学のような
残酷な法則性を自然界のうちに見いだしている
そこに違和感がある

ニュートン力学も実はミクロの世界に適用できないように
進化論も結局は世の一部しか説明できていないはずではないか

たとえば必ずしも
いい技術が世の中に残るわけではない
多様性の讃歌

強いものが生き残る
は両立が困難だ

これ伝わるかな

こうやっておいてみよう
多様なウィルスがどんどん生まれる世界は人間にとって極めて危険
自分にとって都合のいい多様性だけは歓迎する
そんなの多様って言わない
「多様な人材を雇いたい」って言ってる会社が新卒しか雇わないようなもの

さてさて、
進化論は上記のような怪しい解釈を咎めない
そこがおかしい
ポイントは価値を誰が判断するのかということだ

ダーウィンにそえば
生き残るかどうかがその種の形態の価値を決める
けど
皆さんお手元のキーボードをみていただきたい
そのキーの配置はタイプライター時代に決められたものだ。
様々な形でこのキーの配置には批判がなされ
緻密な人間工学にもとづいた画期的なキーボードが提案された

にもかかわらず

ラストキーボードスタンディング
生き残ったキーボードはあなたのお手元にある
気の触れたような配置のキーボードだ

もうこの配置であることに何ら価値はないというのに
価値のない形態が適存したのだ

これは進化論の例外だろうか

ここで
「よいキーボードとはなれたキーボードであり
慣れたキーボードであるqwerty配列が相対的強者だったのだ」
という物言いが成り立つことに注意したい

これにたいしては
まあ、そうだろうさ
と言いたい

けどじゃあ
その結論はいつでたんだろう


qwertyキーボードの開発者は将来のタッチパネル需要までどうやって見通したんだろう

こたえは
見通してなんかいなかった
この偉大な発明家は
タイプライターをつくることで頭が一杯で
未来の携帯デバイスの前提なんて
砂粒ほどもあたまになかった

進化論はいつも後知恵だ
過去の経緯をうまく説明するがそれ以上にはならない
歴史をうまく説明できる理論はいくらでも作れる

人類文明は宇宙人によって作られた
という説だって、その反証不可能性さえ目をつぶれば
それなりにうまく歴史を説明できている。
だからその説を支持する人が絶えないのだ

進化論の軸を
「運のいい奴がいきのこる」
という地点まで退却させれば、かなりいい理論になる
というかダーウィンがそもそも主張してたのはこういう主旨
立ったようだ
しかしこうやって退却させてしまうと
遺伝子は随分意味のない闘いをしていることに気づく
神の悪ふざけのようだ

これではまるで
どれだけ勉強したり筋力を鍛えて好きな女の子を
振り向かせようとおもっても
彼女は気まぐれなのでその辺にいる努力もしてないさえない
男と
さえない男に取られてしまうようなものだ
理不尽である
遺伝子はかわいそうだ。
どれだけ努力してもこと交配の現場にたつと努力はしばしば裏切る。

まあ分は悪くても、長い時間とそれなりの回数をやれば長期的には「良い遺伝子」が悪い遺伝子を駆逐するかもしれない
という戦略なんだろうか

という文を僕はqwertyキーボードで打っている

進化論の話に戻る

生き残るためには強くなくてはいけない

こういう思想が進化論の背景にある

生き残ってきたから人類のいまの形がある

ここに
やばさが潜む

生き残るかどうかはここまでみたきたように
運の良さや、現場の所作がものをいう
後天的かつ複雑な要素の絡み合った仕事であって
遺伝的な要素の出る幕は限定的だ

多い種が強い種
こういう命題が現代に潜んでいる
もう、それいいんじゃないか。このへんでやめた方がいい。