人と言う人の心に一人ずつ マッチョがいて うるさく悲しい

第二子の出産まで残り数週となったこともあり、病院で両親学級を受けてきた。
助産師さんが陣痛のメカニズムと陣痛中の過ごし方、その間に夫がやるべき事などを教えてくれる。
なんせ長男の出産は5年前で殆ど出産関連の事を忘れてしまっていたので大変勉強になったのだが、
「夫が腰をさする時は気を集めてからやると効果的ですよ」
などどややスピリチュアルがかった事をたまに言うので可笑しかった。

ただ、
こんなもんはまだ甘い方で、出産とそれに続く育児にはとかく出自不明な怪しい言説が多い。
一応4年程度育児しながらその手の文の森をさまよった。
有名なのだと「母乳神話」「手作り料理神話」といった言説たちの事ね。

この手の「べき論」な文ってさ、
育児に限らずなにかの悩みなどを勢いで突破したい時には非常に便利なんだけど、
反面、根拠の怪しい「べき論」はそれを使う自分自身を苦しめるし、権力者による搾取体制の強い原動力となる。

結論を引き寄せて言えば、
一人一人の人間の中にマッチョな奴がいて、そいつが自分を苦しめ、さらには不幸を生み出す仕組みの建立に一役買っている。
そんな風な息苦しい現象が起こっているように見えるのです。
なんでそんな風に見えるのか、以下つらつら行きます。

●日常の中にある反論困難な文
日々あちこち、反論困難な文だらけです。

「赤ちゃんは母乳で育てられるのが一番」
「子供を家において遊びまわるのは慎むべき」
「子供は泣いて強くなる」
「母親の手作り料理ってのはいいもんだ」
「人生ってのは辛いことだらけだ」
「仕事とはしんどいものだ」
「彼女を泣かせる彼氏は最低だ」
「他人の気持ちを考えられない奴は価値が無い」
「人を見た目で判断してはいけない」
「無職じゃかっこ悪い」
「親を大切にしなくてはいけない」
「俺は俺として生きていく」
「愛してるの響きだけで強くなれる気がする」

とまあこういう文の事ね。
こういうのを場面によっては文化と呼ぶし、愛とかとも呼んだりするんだろうな。ヤンキー性を帯びたものもある。宗教と呼ばれる事もある。
悪く言えば「綺麗事」

この稿で言う反論困難な文てのは、
単に根拠が薄いとかそれだけじゃなくて、
この文を使った発話がなされたときに、「そうじゃないだろ」とは反論しづらい、反論する事に得があんまりない。ってか損になる。
反論したとしても「感覚の違い」で済ませられてしまう文。そんな文の事を言っています。
建設的な議論をしたい時にこういう文を持ち出されると困るよね。


冒頭のとおり、育児にはこういうのが多い。
例えば「母乳で育てるべき」ね。
「母乳神話」でググると「母乳でそだてるべきなのに母乳が出ない」と悩むママが多い。
妻も第一子の時、母乳の出が悪い時期に子育て教室的な所の先生にネガティブな事を言われ落ち込んでいた。
僕が「『そんなに母乳が大切ならお前が母乳飲んでろ!』って先生にビシッと言ってやろうか」
と慰めたら笑ってその件は流れた。

母乳で育てた方がいいという科学的根拠はない。
っていうかここではそういう事にさせてください。
この稿を書くのを機会に、どんな根拠で母乳が推奨されるのか色々さがしたけど、
母乳のメリットを説明するページも「天然成分だから」「温度がいいから」「自然だから」程度の情報しかなくて大変難儀した。

ていうか、
事実に基づかない怪しい論の為に世の親たちは振り回されている。それ自身は事実なのです。
●なんで反論困難な文が使われるのか、なんでそれはまずいのか。
もちろん、世の中のすべての発話が事実に基づいてる必要なんてない。

それどころか、事実に基づいてない方が便利な事なんてたくさんある。
僕らは一日中建設的な議論だけをやってるわけではないし。根拠を問われない方が幸せな事もある。

自分も親だからわかるんだけど、
子供を叱る時って理屈が使えない時がある。「人を傷つけては行けない」を理屈で教えても小さい子には理解が難しい。「そういうもんなんだよ」と反論不可能な公理として身体的に伝えるしかない。
他方、
ずっとこればっかやってると果たして子供と親の関係って健全と言えるんだろうか。
例えば、体罰をした親が「悪い事をした子は叩いてもいいんだ」と自分を正当化して子に教えたらどうだろう。
それってその子供が「悪いことをした子は叩いてもいい」と思うような子供になるって事だ。だってそう教えたんだろ?
けどその為に、「悪い事をした他の子」を正義で持って叩く子供になってしまうリスクがうまれてしまう。
それって考慮されてるんだろうか。

もっと言えば、
将来その子が誰かに叩かれたとしても
「叩かれるという事は自分は悪い子だから」となっても不思議ではない。
こんなに都合のいい奴隷はいない。

別な例、
「人生ってのは辛いことだらけだ」
「仕事とはしんどいものだ」

これもよく聞く文。
なにかしんどい事があったとき、こう自分に言い聞かせる事で癒しはあるよね、
別に辛い一日があったからと言って、それを人生一般に拡張する必要はないのにさ。
けど使ってしまう。癒されたい時に根拠なんて求めないから。

くるって回転してみれば、
何か人に辛い事を強いたい時に実に便利にこれを使える。
例えばブラック企業で。
「無職じゃかっこわるい」
これも「無職恐怖」で社員をいいようにしたいブラック企業には有利だよね。


「彼女を泣かせる彼氏は最低だ」大事な事です。クズな男っているしね。
ただ、時と場合にもよるが、泣くほどの感情の発露が無い人間関係に何か深みがあるんだろうか。
この文によって、彼女に対する無用な気遣いと距離が生まれる事だってあろう。

「人を見た目で判断してはいけない」たしかにそうだ。この文によって、見た目になんらかハンディがある人でも対等の場にたてる。
でもさ、他人ときちんとした関係を作りたい人は他人にどう見られているかを大事にするよね。
だから場面に応じてそれなりの身なりをしている。
「服装とメイクをマリリンマンソンに似せていますけど、ケーキ屋という職場で頑張りたいと思います」
というのはないだろ。

●誰が得をしているのか
この手の文は、
根拠がいらない、から「そういうもんだ」と思われている。
と言うよりは
広く一般に「そういうもんだ」と思わているから、根拠がいらない。
何故なら「そういうもんだから」反論されえないので、根拠を提出する必要がない。
こゆことではないかな。

「いつ」「だれが」「どういう目的で」これらの文を言い出して「そういうもの」にしたのか。
都市伝説の発生源調査みたいなものでそこを探る事に意味はあんまない。と考えている。
ていうか無理。

ただ、これらの文って僕の観察では
「人を追い立てている」ように出来ている。
と見える。
まあ「反論困難」なんだからそりゃそうだよな。
言い返せないんだから、言われた通りにしなくちゃいけない。

という事から、
これらの文の作者はわからなくても、これらの文で得をしている人はなんとなくわかってくる。
例えば僕だ。
先述のとおり、親としての僕はこういった文をつかって子供にいろんな事を教え込んでいる。

つまり、
人を追い立てたい人。
もっと言えば、
「自分で自分を追い立てるように人を教育したい人」・親
・教師
・雇用者
この手の人たち。しばしば誰かの息苦しさの源となったりする人たち。
この人たちが「そういうもんだ」な文を使う事で得をするようになってる。

別に、悪意があってやってるとも思わない。
僕も含めそれぞれの目的があってこうしてるのであって、なんていうか何か罪があるわけではない。

ただ、個人の感じる息苦しさのそれなりの原因とはなっている。

●個人の問題としての反論困難な文
こういう文ばっかり使ってくる人を、便宜的に「マッチョ」と呼ばせてください。本来の意味から外れるのは承知で。
マッチョと言う語から連想する映像的イメージがしっくりくるもので。

こういうマッチョが、誰の心にも一人ずつ住んでいる。
僕自身についてはそう思う。
そんでいろんな人の相談にのったりして観察している限り、皆そうでないかな。と感ずる。

だってそうだろう。
教育や躾けの目標は自分自身を監視する看守を作る事だろ。
「学校を卒業しても一人でやっていけるように」
「上司や先輩に教えられなくても仕事ができるように」
教育するのであって、
自らの内側に「そういうもんだから」としか根拠を持たない文を言ってくるマッチョを住まわせておくようにする。
これが「身体に教え込む」の正体。

みんななにかしら「身体に教え込まれて」いるよね。

根拠は無くても「そういうもんだろ」と脊髄反射のように投げ返す誰かが誰かの中にいる。
その事に慣れている。

その結果どうだろう。
どこか楽になれるところや、いままで行ってみた事のない所へ自分を運びたい時に
「それはすべきでないだろ、何故ならそういうもんだから」とマッチョが言ってくる。
それって息苦しさそのもの。

●出口
そんでまあここまでダラダラと色んな話を並べ替えてきました。

で、残念だけど、
漬物のきゅうりが元のきゅうりに戻る事ができないように、このマッチョを追い出すのは無理だろう。
それって自分を律する機構を無くすって事だしね。
ただ、
このマッチョが「居る」と意識する事にそれなりの効果はあると思うのです。
「そういうもんだ」と反論困難な綺麗事を言ってくるのが、自分なのか、それとも他人なのか。
そうする事で「自分すら自分の味方じゃない」って状況は避けられると思うよ。

一旦、この程度で。。

安価な「意識の高い人」が量産される仕組み

以前、ココイチで隣に座っていたバイト仲間とおぼしき若い男性4人が「いかにして店の売り上げを上げられるか」について熱い議論を交わしていた。その後「パチンコいくか」とバイト代を溶かしに出かけてた。
「良いようにやられすぎだろ」と思いながら、「その店の店長はいい買い物したな」ともドライに考えた。

この、彼らの時給が幾らかはしらないがおそらく高くても1000円前後だろう。
一日8時間、週3日×4=月9万ちょっとの給料を貰い、さらに仕事後も仕事について熱く議論。その条件で彼らが何を買ってるのかと言えば「働いてる実感」「職場という家族へのコミット感」あたりだろうな、と想像する。

彼らの気持ちはわからんでもない。

家族的雰囲気のあるコミュニティに参加できている実感ってのはたしかにイイ物がある。それが生きるためのお金につながるのなら尚更。 さらにその組織が「日本を変える!」みたいな方向に進んでたら、誰でもコロッといくよね。

けどそういう実感って危険でもある。
「意識高く働く」という事は、おおよそ妥当とは言えない給料で給料分以上に働かされるリスクと表裏一体だ。
この若い人の「意識高くありたい」=「替えのきかない人になりたい」という欲求。たちの悪い事に、欲求の増幅装置機構が若者の成長過程に組み込まれており、増幅されきった結果、巧みに利用されるような仕組みが存在している。

一言でいえば
安価な「意識の高い人たち」が量産されるしくみ

この仕組みとその危険性をいかまとめました。


●「意識の高さ」はどのように経営側に便利なのか
「自分は職場にとって替えのきかない人材である」よく聞く発話だ。こういう理由で病気なのに休まなかったり、有給を取らなかったり、休日出勤したり、サービス残業したりする人を散見する。

たしかに、「替えのきかない人材になる」はお金と安定を得る為の個人としての最適解だ。
小中校と12年かけて「普通の事が普通にできる人」=「替えのきく人材」になった所で、いつでも誰とも交換可能な人になることになんの意味があるって話な上に、普通の事が普通で無くなった時、つまり需要の変化に酷く脆くなる。

一方で、組織運営の立場から見れば「替えのきかない人材だけ」で作った組織は酷く脆い。会社組織の全員が「替えのきかない人材」になるのは組織として脆弱すぎで発展もないな。ドライに考えれば「誰がいついなくなっても大丈夫」なのが理想的な組織であって、だからこその組織と言える。

だから実態としては「替えのきく人材」だけで組織を作りたい。というのが経営側のピュアな思惑だけど、
「求む!替えのきく人材!」なんて求人広告をうっても、そんな職場に人が集まるわけがない。っていうかそんなの見たことない。

さて、
自分の事を「替えのきかない人材」だと自覚した時の人間のモチベーションって馬鹿にできないものがある。 休みなしで、または残業代なしで人を勤労に駆り立てるパワーがある。その突破力には正直、しばしば感心する。
こういう人。経営側としては非常に欲しい。

けど、先述のとおり、組織運営の立場としては「替えのきく人材」だ。

ということは?

組織として望ましいのは「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」って事になる。 
こんな書き方すると身もふたもないけど、合理的に考えすすめていくと、経営者の目標はこういうところに落ち着く。

けど、このような前提にたってみると、学校にしても職場にしてもメディアにしても、
発話空間のある所はこういう経営側の欲求を満たすために実にうまく出来上がっているように僕には見える。


●高い意識の生産方法
「自分は他の普通の人たちと違って、そこらへんにはいない特殊な人間だ」このように
「自分は人とは違う」と思い込む為の文脈はそこらへんにあふれている。
ヤンキーになるにしてもオタクになるにしても、リア充になるにしても非リアになるにしても、
そこには常に「オレって量産品じゃない」という自覚のチャンスが用意されてる。

おそらく誰だって「オレって人と違うな」という自覚位は持ったことがあるだろう。
僭越ながら、それはそう思い込みやすいようにこの世が組みあがっているせいだ。

どういうことか。
例えば学校なら「普通の人を生産しようと言う強制」に反発すればするほど「特殊な自分になれる」という実感を買う事が出来る。
授業を「ダルい」と連呼すればするほど、というかするだけで「普通の人を生産しようとする工程から外れている」という自覚を実に安く買える。

これは別に学校がその事を目的として作られた。と言いたいわけではない。
けもの道みたいに出来上がってしまった経路だと思って欲しい。

刑務所がその意図と逆に犯罪を再生産する機能を提供してしまっているのと全く同様だ。学校も「普通の人を生産する」という意図と逆に「オレは普通の人ではない」と思い込むチャンスを生徒に与えてしまっているように僕には見える。 学校があるから反抗する対象が明白になってしまっている。
尾崎豊が何故に「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」のかと言えば、それはそこに校舎があったからで、もし校舎なんてものがこの世になければ、彼はバイクの窃盗で捕まる「普通の」犯罪者になっていたし、どこにでもいるバイクの窃盗犯の歌に耳を傾ける人などいなかっただろう。

違う例を挙げれば、
「なんでもいいから何かの作者になりたい」つまり「クリエイターになりたい」という世代年代を通して普遍的な欲望も「替えのきかない人になりたい」という願いの一つの現れ方なんだと思う。 そういう願いを持っている時点でオリジナルな人材とはいえなさそうなのにね。

ことほど左様に、
6歳から始まる若者の社会生活の前半は「オレはそこらへんにはいない特別な人間=替えのきかないだ」と自覚させてもらえるチャンスが溢れている。

というわけで、「社会人の生産システム」はそのデザインの意図とは真逆に「俺は替えのきかない人」という自覚を量産してしまう。
しまうんだけど、、、悲しいかな、
若者の身体は普通の人になるべく調理されているので「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」として出荷されてしまう。

しかも沢山出荷されてしまう。
経営側からみれば、それを放っておく手は無いよね。

●それはどうして危険なのか
上記のような仕組みで「普通の身体と”普通じゃない”心」のパッケージが量産される。
しかも、この仕組みは全国津々浦々大体どこにでもあるので、大量に出荷される。

大量に似たようなものがあるって事は、それを安く買えるって事だ。
供給は需要を生み出すわけで、この手の人たちが安く出回っている事に気付く人は気付く。 
そしたら「安く仕入れた意識の高い人たち」を使って美味い商売をしようと思うよね。 これがブラック企業を生み出す。

ブラック企業問題は
「たちの悪い企業がほかの企業の中に紛れ込んでいて、
 その罠に嵌ってしまう若者がいる」
という単純な仕組みではない。
「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」が安く大量に出回っているからこそそういうビジネスモデルの会社が伸びる、
という競争条件に関連する問題なのだ。

誤解を恐れず言えば、ブラック企業は単に合理的な商売をやっているだけで、
彼らに安くて便利な労働力を供給してしまった側にも問題がある。

そう考えると、文化として当然発生する「若者らしい反抗」すらも実に巧妙に巨大な経済装置に組み込まれてしまったかのように見える。 マトリックスの仕組みをイメージするとわかりやすい。 「人類の反乱」それ自体が一種の予定調和でそれすらもマトリックスの企みだったっていう。

こうなると、最初の設問に立ち返って、個人としての最適解が「替えのきかない人材になる」って発話が正しいのかどうか自信がなくなってくる。 
頑張って頑張って「替えのきかない人材」になった所で釈迦の掌の上なら意味がない。 

●じゃあどうするのか
一歩退いて考えれば家族以外のコミュニティで「替えのきかない人材」になった所でなんだと言うんだろう。当たり前だけど僕と同じような給料で僕と同じ事が出来る人は幾らでもいるわけで、個人が経済システムに対して脆弱なのは今に始まった話じゃないから、そこを突き詰めすぎても仕方ない。

そろそろまとめると。
戦う相手は「個人を特別では無くする仕組み」では無いという気がしてきてしかたない。そこへの戦いはもう負けたとして次の戦地に移るべきなのだろう。 

上に挙げたような「普通の人を生産しようとする仕組み」に反抗しなければ得られないような「自己肯定感」は所詮量産品でしかない。

一番いいのは「自分は生まれながらにして価値のある人間である」という健康的な自覚を身体に伝える。
だれがやるのか
その人を産んだ家族がそれをその人に伝える。
そうすれば「自分は特別かそうでないか、いやどうか」という戦いを避けられる。

普通であるかそうでないか、替えがきくかそうでないか、
その悩みを忘れる事からすべては始まる。

オリジナルである事を追求しすぎても、結局コモディティになるだけ。
身体的実感、原始的自覚として、「自分は何もしなくても特別」と感じる事の出来る子供。
こういう子供を増やしていくのが、ぱっと思いつく戦い方だ。

と考える次第。

美徳と階級意識

美徳、ってそれほどいいもんでもないよ。特に労働に関する美徳。
美徳は階級を生み出すよ。階級なき美徳はありえないよ。
少なくとも労働に美徳を結びつけて語るのはもうやめた方がいいよ。

というような話をします。

●美徳はおかしな使われ方をしている「働いてるパパはカッコいい」という文は裏返すと「働いてないパパはカッコ悪い」という差別的な雛型からできあがっている。

原理にかえれば、労働は取引なので、本来自分の労働力を売るも売らぬも自分の自由だ。にも関わらず「労働力を売らぬとはなんたることか」という説教が成り立つ。蔵書の多い人が来客に「え?この本売ってくれないの?!」と責められてるようなもんだ。

じゃあ
働かないことがなぜ悪いって事になっているのか。
それは労働と美徳が結びついて語られてしまっているからだと私は思うのです。

・働かざる者、飯食うべからず
・働いている人間の汗は美しい
・職について一人前の男
・働くことを通して人間的な成長がある

これは全部いい感じの文です。まず反論されない。この文への反論をしたいなら命がけだ。
世の中で反論されない文という事は、自分自身がこれを自分自身につかっても自分自身に反論されないという事だ。
すなわち自らのケツを叩くムチとなる。言い換えれば内なる労働監督官だ。
こいつはツライよ。自分ですら自分を甘えさせてくれない。

なんていうかさ、
極論すれば働かず飢えて死ぬのも自由です。けど大抵そういう人は死ぬよりも辛い目にあう。 働かぬ事を世間に責められ、親に責められ、そして自分自身に責められる。男が無職で外を歩くのは、女子がスッピンで出歩くのに似ていると思う。

人を人として生きにくくしてしまうようなこんな美徳は本当にイイモノなんだろうか。

イイモノではない。

僕の見方では、美徳だと思われているものは、人の階級を決定するシステムのある面だ。
出自が人の階級を決定する事があったように、一般的な美徳に沿っているかそうでないかがその人の階級を決定する仕組みがある。以下、論証を試みます。

●美徳と階級がくっついている
美徳は階級に結びつく。
美徳を実践する人は好むと好まざるに関わらず一定の評価を得る。
職業倫理であれ、宗教的修練であれ、ヤンキー的美学であれ、美徳がある、と言うことは、そこには階級もあるようにみえる、残念ながら。

くどいかもしれないけど、以下考察をしてみる。
「良しとされるモノ」が美徳によって示される時、同時に「良しとはされないモノ」も暗黙に立ち現われる。
模範とはそういうものだろう。「緑信号で渡るべき」と教える時、「赤信号で渡ってはいけない」という教えも同時に出現する。
てことは
規範に近いか遠いかがその人の「良し悪し」を決定するモノサシとなる。
信号についての教えが「良い子はこうする、悪い子はこうする」と定めるように。

さらに、
一般的に、美徳は達成がそう簡単ではない事だったりする。
「必死で働く」「神に近づく」「ツッパる」のようにちょっとやそっとでは達成できない目標を設定される。
すなわち
なんらかの美徳を実践できている人はそうでない他人よりもコストを支払った、と言える。
だから
コストを支払わなかった人を差別する事が出来る。
そうでなかったら美徳にコストを支払う意味が無くなる。
・どれだけ働いても同じ給料、働かなくても同じ給料
・どれだけ善行を積んでも、無神論者と同じ地獄にしか行かない
・親や先生に過激に反抗しても、族仲間から尊敬されない
・信号を守っても守らなくても車に跳ねられない。
これでは美徳の機能が達成できない。
美徳を実践できた人は評価されるべきなのだ。
ならば、美徳を実践できない人は評価を得てはいけない。

「階級を定めない」という美徳だってあるだろう。
という反論があると思う。
そういう人たちは今なお残る「階級が露骨な国」についてどう思うのだろう。
「そんな国は亡びるべき」と言うなら、それはその国を劣ったものとしてみている事だ。
「そんな国はほっといていい」と言うなら、その美徳が普遍ではないとわかっているという事だ。すなわち美徳とは信じていない。

さて
美徳や規範の厄介な所は主体化するという事だ。
信号ルールが僕らの身体に根を下ろしているように、世の中、そして労働についての美徳も僕らの心の内に在ってしまっている。
って事は美徳がもたらす階級意識もまた僕らの心に住み着いている。

働かぬ人に対してあなたが向けるかもしれない厳しい目は自分に対しても向けられている。
働かぬ自分を差別する自分。
そのような監視官いや査定官があなたの内に住んでいる。

これはゾンビモノにも匹敵するホラーだと僕は思うのです。

この辺から現代の身分制について以前書いた稿につながっていきます。ご参考。
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/touch/20130103/1357205359


●美徳と階級は共犯関係

階級と美徳のどっちが先にやって来るかを判断するのは難しいか、または意味がない。 西洋貴族のノブリスオブリージュなんかは、階級のあとに美徳がやって来たように見えるが、ノブリスオブリージュが彼らの階級を正当化していると見ることも出来る。

一言でくくるならば、美徳と階級は共犯関係。
さらに言えば
だれかがこのようにデザインしたという訳ではなく、そのように「自己組織化」してしまったと思った方がいい。

また、「何が美徳となるか」についても、いささか不自然な自己組織化をしているように見える。

先の女子が「スッピンで出歩くのが恥ずかしい」の例で言えば、
化粧は手段のはずなのにそれが目的になっている。
職に就くこともカネのための手段の筈なのに、「職に就くことが」優位に立つための目的になっている。
不自然な事に。

仮説だけど、
化粧と労働の本来の目的である美とカネはあまりに露骨で階級の決定変数としてはグロテスクだ。くだけていえば万人ウケしない。
だからその手前にあって比較的実践しやすい「化粧」「労働感=やりがい」に美徳を結びつける事によって汎用性の高い階級決定システムが出来上がる。んじゃないかな。
複雑ではあるけど「カネは汚い」という美徳もまた現代にはあるのだ。だから「カネには言及しないが労働はイイ」という美徳が求められている。先の階級決定システムにより。
(この仕組みについての考察は長くなるので別稿にまとめます)

このように、
階級決定システムですら「ユーザーフレンドリー」になっているのだ。
現代はすげぇよ。

でこの「使いやすい階級システム」が労働美徳と結びついている結果なにがおきているのか。
美徳の為の労働、という狂気の沙汰だ。
「充足感と社会的信用を与えるから、俺の為に働いてくれ、薄給で」こんな狂ったトレードが成り立ってしまう。

僕が商人だからそう思うのかもしれないけど、労働はまずもってカネの為だ。とことんトレードなのだ。
そこから得られる充足感や自己肯定感は副次的なものにすぎなくて、それが目的化してしまってはそれのために自分の身体を払わされる羽目になる。
ではどうすればいいのか、

僭越ながら僕は「カネに帰ればいいのではないか」と言いたい。
僕らは資本主義の国に生きているのだ。
まずカネを、というか生きるに足る十分な屋根と食事と時間を、常識的なコストで手に入れられる事を最優先すべきだと思う。
自己実現や充足感はカネを得てからでよい。っていうかこの辺はカネを払って買った方がマシ。
カネをケチって、自らの身体を差し出すからロクな事にならない。

そしてなにより
一人一人が「勤労の美徳」を捨て、「自らの幸福」を最優先に生きられる自由な資本主義社会を望む。のです。
カネは汚いものではないよ。
カネを汚いとするような美徳が間違っているんだよ。

「思いやりの国」の終焉

春も近くなってきました。
春は新しい季節。職場や学校が新しくなることになり、そこへ適応できるか心配になりはじめる人も多いと思う。
なんか、出だしでつまずくと取り返せない。みたいな不安ってあるよね。
新しい場所になじめない人は負け犬、みたいな価値観もあるよね。

でも
適応、って必ずしもいい事ばかりじゃない。
むしろ、いまこの国では「適応しすぎ」「つながりすぎ」による巨大な事件がおきつつあると僕は見ている。

せんだって、「絆」という語をありがたがった時期があったけど、
やみくもに信じていい言葉じゃない。つながりすぎる事によって死ぬことよりも酷い目にあうこともある。

そういう話を以下します。

●環境とつながる、人の輪の中へ心を同調させる

さて
進化論は「強い種が生き残るわけではなく、変わることが出来て環境に適合した種が生き残られる」というのはよく信じられてるけど、
実は「変わりすぎ」て滅亡した種もかなりある。
恐竜は「大きすぎて」滅亡したし、マンモスは「牙を大きくしすぎて」絶滅した。(諸説あり)
その時々の環境とつながりすぎて離れられなくなってしまった。と言い換えたい

で、
人間関係にも同じ事があると思う。

身体と違って心はすぐに環境に適応できるか?そうでもない。
明日から翼を生やして生きていくことができないように、明日から心に翼を生やして自由に活動する事も出来ない。
しかし、
なにか与えられた環境があったとして、その中で過ごすために心をそこへ少しずつ沿わせて行くことは出来る。
人間関係や仕事環境のなかに徐々に入っていく活動の事だ。
これを人の輪に同調していく、とここで言い換える。

この能力は人間のもつ資質のうちでも特筆すべきものの一つだと思う。
どんな場所に行ってもそこへ合わせて自分を作り変える事は生存に必要な能力だ。

例えば、
大学にカラオケが好きな友達が多いので自分も歌う事が好きになる。
ゆったり過ごす事が好きな恋人と交際し始めて自分もそういう時間が好きになる。
勝つ事。が是とされているチームに入り、勝つために何をすればいいか自分も考え始める。
ブラック企業に入り、長く、しかも無給で働く事に喜びを見出していく。無給で働こうとしない人を差別するようになる。
暴力で支配される宗教に入ってしまい、自分も暴力を振るい始める。

DVを最端の例とすれば、そこへ至るスペクトラムの前の段階としてぬるめの共依存関係が見つけられると思う。
恋人同士、ある種の体育会系組織、家族的企業、同郷団体、クラスのなかの集団、同好の士、
どれも無害ではあるけど過剰同調が始まると徐々に端へと歩きはじめる

僕が問題としたいのは、
上にあげた例の下の方。
ゆきすぎた適応、つまりマンモスの牙のような過剰同調のことだ。

いま、それが起こっているのか?
少なくとも日本ではそれが起こっていて、それが問題になりうると僕は見る。

●日本で起こっている同調のレース

昔から日本は同調圧力が強いと言われてきていて、日本人も外国人をこれをよくわかっているようだ。
けど、「相手をおもいやる」「相手とつながりを持つ」という事それ自体は世界中でわりと肯定されている美徳で、
これを全くしなくても甘受される地域ってのはあんまりない。

ただ、僕の見るところ、
「思いやり」「つながっていること」これが日本では美徳どころか序列のための格付けの基準となっている。と感じる。

例えば、
「思いやりのある政治家」についてみなさまどう思いますか。
「私は優秀であり、私はみなさんよりも正しい判断が出来る、私に議員の仕事をやらせて、私に税金を使ってくれ」
これを言っている人の中からより確からしい人を選ぶのが本来の選挙だろう。
けど現実は「私は庶民であり、皆さんと同じ目線で考えられる」的な政治家が好まれる。そうではありませんか。
あまつさえ「無給でいいです」とか言い出す人が現れる。

アメリカでもあんまりスノッブな政治家は好まれないから、出来るだけお金持ってないことをアピールしたりするけど、
「無給でいいです」はさすがにない。行き過ぎた庶民派アピールは「ショボイ」とすら見られる

「思いやり」は確かに政治家の必要条件かもしれないけど、それが日本では十分条件のように扱われている。
なぜか
それは「人間は思いやりによって序列が決まるので最も思いやりのある人間がトップに立つべきだろう」という変な了解ができているかだ。
「能力」よりも「思いやり」なんてあやふやなもんで統治者を選ぶ、そういうおかしな状況がある。

別な見方をすれば
これは利他行動のレース、より利他的である人間が選ばれ、尊重される。そういう現象だと思う。
他の人よりも「同調」できる人間、もしくはそういう人間であると思わせられる人間の地位があがる。そんな競争だと思えばいい。

ここ10年の就活市場で「コミュ力」に異様なフォーカスが当たっているのも同じ、今の自分の会社により「同調」出来る学生が好まれる。

政治や経営のようなマクロ的な面でなく、ミクロな身の回りの生活の中でも「つながっている事」それ自体が優劣を決めるモノサシとなるような構造があると思う。

例えば童貞差別だ。
本来セックスは個人の物なので誰かが童貞であるかないかというのは、「フォアグラを食ったことがあるかないか」という程度の問題でしかない。
にもかかわらず
童貞であることによって人を一段劣った人間とみなす事が出来る、そういう物語がある。
当の童貞自身がその物語を信じているから始末に負えない。
なぜなのか。
童貞を捨てられるという事は、セックスを女の子に許可してもらえるくらいその男の子は他人とつながる事が出来る。という証拠になり得るからだ。
セックスを許可してもらえていない男の子は他人とつながれていない。これを一段低く見る向きがある。
だから童貞をいかに早く、いかにショボクなく、捨てるか、そういうレースがある。
逆に「フォアグラを30歳までに食べた事のない男はヤバい」なんて話は出ない。

もう一つ別な視点からも、
ひと時、西野カナが「会えない」辛さを歌って流行ったが、
うがった見方をすれば
「会えない」事によって自分の社会的位置がひどく低いものと感じてしまう女の子の辛さを歌ったものと捉える事が出来ると思う

さて、
なぜこんなわけのわからないレースが起こるのか。

●何が過剰同調を生むのか

過剰同調のエネルギー源は一言で言えば生存欲求という事になるんだと思う。
社会階層からの転落に対する恐怖がある中で、ある階層に根をおろした集団にとにかく同調して繭をつくれればそれほど安心なことはない。

子供はそーゆうの凄い気にする。
親に気にされるしね。
「学校に友達はいる?」って
自分も親だからそうなんだが、子供がいじめっ子になる事よりも、いじめられっ子になることのほうが嫌なんだよね。
たぶん俺も含めた親はその保護欲を有形無形に子供に浴びせてしまってると思う。
それを感じ取った子供はとにかく階層から振り落とされないように過剰な同調を行いはじめる。

特に、
今みたいな、普通でいることが難しい時代にはその保護欲は益々強まるだろうな。
じっさいいまどきの、親のための指南本や雑誌には「子供をニートにしないためには」みたいなコラムがかならず載ってる。普通の人である事が難しくなればなるほど、普通の価値が高まる。

やや話はそれるが、ほんの十年位前まで、「普通でいること」は文字通りデフォルトであり、そこから離れるかどうかは選択的だったように思う、今は「普通に学校法人に行き」「普通に友達をつくり」「普通に就職し」「普通に勤め続け」「普通に結婚」することすら、なにかひどく高いハードルがそれぞれある。90年代、「普通でいるべきかどうか?」が問題であったのに対して今は「普通でいられるか?」が課題になってると思う。
かつて伊集院光のラジオで
「親父のように平凡なサラリーマンの道は歩きたくない、と昔言ったが、いま凄く歩みたい!」
という投稿が読まれたあたりが転換点だった

でまあ、今の子育て世代って大なり小なりその転換点を通過してきた人たちだから、益々子供にたいして「パイプラインから滑り落ちないか」という注意が強くなる。
パイプラインから落ちた例をいっぱい知ってるしね。そして、人間関係でつまずくと、他の形で挽回するのが困難ということも知ってる。

話をまきとる。
どうして日本は思いやりの国へと進化したのか。
それはおそらく数十年前くらいに、ほんのわずかな「普通の人々に対して同調しないとヤバい」という親の焦りが子供に伝染し、
そうやって育った子供が同じ焦りをそのまた子供へと伝染させる。それがここ10年くらいで社会状況の追い風を受けて「普通でいないと死ぬ」へと加速したんだと思う。

一旦その方向へ社会全体が定向すると、加速的にその向きへ進み始めるという現象がある。
株式市場がいい例だ。
なぜ投資をするべきなのかというと、皆が投資をしているからだ。という流れによってどんどん投資が加速する。

他方、こういった同調圧力の原因を求める時に、よくなされる「日本人は村社会だから同調圧力が強い」という説明は買えない。
ヨーロッパもアメリカも、歴史のほとんどが村社会だし、現代だって生まれた町で育ち、そこで結婚してそこで死ぬ外国人はいっぱいいる。 なにか「日本古来特有の器質」を日本的諸悪の原因とするのは無理がある。

●それの何が今よくないのか。

そいで話をまとめると、株式投資に乗り遅れると、あとから乗るのがドンドン大変になるのと同様に
これからしばらく僕らはむせかえるような過剰同調の汚染に悩まされると思う。
わずかに同調をしくじるだけで即座に弾き飛ばされる。

能力や資質で挽回しようにも今「才能」「能力」なんてもんは世界中の好きなところから買ってこれる時代になった。

そいで、どんな事件が実は起きてるのか、というとですね。
ある集まりへの過剰同調のあまり、他の誰とも同調出来なくなってしまうという固定化ですよ。 少しの環境の変化で絶滅すらありうる。 一言で言えば「絆つよすぎ、みんな死ぬ」

一度、絆を結んでしまったが最後。
そこを抜けてほかの集団へと同調しようとすると即座に同調力が弱まったのを今の集団に見抜かれ、全力でキックアウトされてしまう。
または今の集団に同調するのに必死で、ほかの集団が目に入らない。

本来自由に情報を見つけられるはずの、ネット空間でもそういうところありませんか。

自由の量が多いはずの時代に、自由でなくなる、そういう事件だと思うのです。

誰か特定の人たちを思いやりすぎて、それ以外のだれも思いやれなくなる。 そーいう形でこの国の思いやりは終わる

ヤンキー性と宗教、あとナショナリズム

宗教者でなくとも、宗教的であることが可能なように、
ヤンキーでなくてもヤンキー性を持つ事は可能だと思うんだよな。
むしろ
それなりの数の人が、それなりの心の割合をヤンキー的ななにかに明け渡しているのではないか。
さらにいえば、宗教とヤンキーは実は同じ事の変奏でしかないのではと直観している。

そのつながりを発見しようとする作業を通してなんかこの時代の気持ち悪さの問題の輪郭をとらえられるんではないかとこう思うのです。


1:ヤンキー性とあなた

人という、人の心に一人ずつ、ヤンキーがいて何かと強がる

心の中にビーバップハイスクールの人たちがいるとかそういう事ではなくて
ヤンキーの人が言いそうなことを、僕らはわりと普段から言っていないか、
そういう指摘です。

例えば、
「のし上がりたい」
「俺は俺として生きていく」 
「仲間を大事にしたい」
「マジ親に感謝」
「我慢がお前を強くする」
「地元愛」 

これらはヤンキー性を帯びている。そう思いませんか。
でも、誰もが言いそうなことではある。
っていうか、一般に「善し」とされているものの多くはヤンキー性との接点があるんでないかな。 

こういう文はさ、なんていうか反論不可能性がある。
「仲間を大事に」っていう発話それ自体に反論は不可能だよね。
だから公理的であるといえる。
公理って言うのは、「そういうものだとして扱う」定義の事で、例えば「平行線は交わらない」とかそういう類の文です。
反論不可能な文、それ自体は悪い事ではないし、そういう事実で世の中はあふれている。
例えば身体的感覚に基づいた直観を当人は否定しづらい。
否定しづらいからこそ僕らはあまり合理的でない行動を取ったりする。
「なんとなくこっちの方がいい」みたいなアレね。

「人を殺してはいけない」
みたいな訓を論理で説明する事が良いとは思えないし、必要とも思えない
「自分が殺されたら嫌だ」
という身体的感覚のレベルまで引き戻して教えないと、皆が了解すべき事項として必要な水準を満たさない。

だから反論不可能な文、それ自体はもう「在る」モノとして扱うしかないだろう。
あきらめるわけではなくて、税金みたいなもんで、初めから計算に入れてあつかう。工学的に。

僕らはこういう公理を必要としている。
先稿の「早い論」でも繋がるけど、この手の「早さ」と「信念」による突破力を僕らは必要としている。
人間の思考能力には限度があって、すべての課題を思考の水で満たしきる事ははっきり言って無理だ。
考えれば考えるほどこの世には不確定性しかないという事に気づいてしまう。
だから、あらかじめ作られた水路のようなものでもって、
とにかく突き抜ける
それを必要としている。

そんなとき上に挙げたようなヤンキー性はひどく魅力的だ。

なぜ我慢が必要なのか、
 それは我慢がお前を強くするからだ

なぜ仲間といるべきなのか
 それは仲間が大事だから

なぜ俺は俺なのか、
 それは俺が俺だから

そういうの
あったほうがいいよね。と思えるよね。

哲学的な視座に立ち返れば、人間にはいつだって外部がある。
外部の不条理と戦う時、なにかよって立つ支えがある事はとても大きい。

僕の観察するところでは、ヤンキー性というのは若者が外部と戦うための重武装みたいなもんだ。
でもって
戦うすべての人の為にヤンキー性は準備されている。

こうやって持ってくると、ヤンキー性がなぜヤンキーでない人にも必要とされるかすこしわかると思う。
不条理から逃げ切る事はできないからだ。
もちろん濃淡はある。
不条理を強く感じる人はよりヤンキー性を必要とするし、幸運にも自分の意思が正しく世界とつながっていると感じられる人はそれほどに必要としないだろう。
可哀そうな生い立ちの人がヤンキーなのは、そういう人たちにヤンキー性がより求められているだけの事で、ヤンキーでない人はそのあたりからただ遠いのに過ぎない。同じ線の上に乗っているのだ。

宗教も多くの場合気の毒な人から広まる。

*2:宗教とヤンキー、あとナショナリズム

「宗教は死への恐怖から生まれた」と置くならば「ヤンキーは社会への恐怖から生まれた」となる。

宗教もまた公理を提供する。
神が決めたならば、それは正しい。
神が言っているから、信じるべきだ。
正視できない人生の不条理に直面した時に、こういう話が救いになる事はある。
どの地域でも死の不条理が宗教によって贖われるのにはこういう理由がある。

安心がここにはある。
安心をもたらす公理系を自分たちの肉として生きる事ができればどれほど幸福だろうか。

ところでだ。
ナショナリズムもそうだよね。
先の構造にナショナリズムをはめ込むならば、
ナショナリズムは外国人への恐怖から生まれた」となるかな。
ナショナリズムもまた気の毒な人たちから広まる。
人種差別意識が強いのは単純労働者という説がある、単純労働者ほど外国人の単純労働者との衝突が多いからだ。

宗教が死について独特の物語を持っているように、ヤンキーは社会について独特の物語を持っていて、ナショナリズムは外国人について独特の物語をもっている。
その独特さについて、理解不能な事が多いだろう。
でも公理系なんてそんなもんだ。
この三つは特に外部と戦う為に用意された公理系みたいなもんで、外部の立場からやって来てそれに触れようとするとき酷い反撃を受けるのは仕方ない。

宗教もヤンキー性も、そしてナショナリズムもすべてもっているのは、
とにかくその外部への強烈なまなざし。 自意識過剰と言ってもいい。 

それはどんなふうに危ないのか

*3:何が危険なのか

僕の立場としては反論不可能な文それ自体になにか危険なものが宿っているとは思えない。
だから反論不可能な文、それ自体はもう「在る」モノとして扱うしかないだろう。
あきらめるわけではなくて、税金みたいなもんで、初めから計算に入れてあつかう。工学的に。

問題はその使用。

こういう反論不可能な公理は、あるものに使われるとひどい効果を生む。
例えばブラック企業だ。
「我慢が成果を生む」
「世の中は甘えていて、俺たちはトガっている」
「夢を信じて生きていこう」
こういう反論不可能な文でもって人を無茶なミッションに駆り立てる事は可能だ。
それは大抵のばあい、悲劇的な結果を生む。
ナショナリズムも同様。


また、体罰は優れてヤンキー的だよね。
暴力を理解しようとする。という事すら人間は出来る。 だから体罰が効果を持つわけで。 自分を攻撃するものまでがメッセージでありうるってのは、僕には決してそうは思えない。
「繋がろうとする」事の危険さがここにあると思う。
体罰やDVによって生まれる類の絆もあるわけよ。「絆」それ自身に善性は無いといえる。
せんだって「絆」が世の中にあふれたときにそれに猛反発した人たちは、危ない絆に触れた事のある人たちでないかな。そしてそれは相当数いるんでないかな。 
ヤンキー性は絆によって社会と叩こうとする物語であって、その絆には暴力も含まれる。
「仲間が大事」
それはそうなんだけどさ、
暴力によって成り立つ仲間を僕らは否定したはずではなかったのか。

近い話でミッション化も危ない。ここでいうミッションってのは布教の事
ミッション化したヤンキーってのもいるよね、 ヤンキー的でないものを攻撃する事が好きな人。 飯食いに行ったときに横に座った男二人組の片方がこのパターンという事が多い。 もう片方のヤンキーが聞き役タイプだとなりがち。
ヤンキーにしても宗教にしてもナショナリズムにしてもミッション化しはじめると、いい事があんまりない。てかほとんどない。


この稿は、ここまで指摘してきたような危険をどうこうできる処方箋は提出しない。
ただ気を付けて使おうね、と今はしておく。

「秒速で一億円稼ぐ」のような早い話の危なさ

「秒速で一億円稼ぐ」という本の広告を電車内でよく見る。
たしかに「速さ」ってビジネスにはすごく大事で、40年で一億円稼ぐ技と一秒で一億円稼ぐ技は雲泥の差がある。

特に若者にはこの手のスピード信仰がある。
これは考えてみれば当たり前で、この先何十年続くか続かないかわからないやたらと長い路の前に立たされている時に、とにかくさっさと済ませる方法があるのならばそれに飛びつきたいという気持ちはよくわかる。
だからこの本をマーケしてる人たちはターゲットにうまく刺さるメッセージを選定したと思う。

このように
早さ、は好まれる。が危ない
という話をしたいと思います。

A:早い論はどのようにあって、それはどのようにわかりにくいのか、どのように流行るのか
1:早い論の列挙
経済学や心理学の分野では人間の速い判断は間違いを起こしがちであるという事が割と証明されている。

プロスペクト理論
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E7%90%86%E8%AB%96:title=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E7%90%86%E8%AB%96
]「認知バイアス
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9:title=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9
]
つまり意思決定のショートカットを促す回路が僕らの中にあり、人間はそれに従いがちで、それは正しいとは限らない。
とこういうことはもう事実としてある。

さらに
上記の例のように経済的/定量的な分析にかけられる程には認知されていないけど、
結論、もしくは合意を早くショートカットで得やすい論の型はもっとあると僕は直観する。

例えば
ー物語的な論
 ・陰謀論:「世界は闇の勢力に支配されている!」
 ・反体制:「革命を興さなければいけない!」

これらの論は「早さ」と同時に「面白さ」をもっている。反体制が面白いからこそ、これだけ多くの人が、ヤンキーや労組やネトウヨになる。

物語、という程ではないけど、以下のような論も持て囃される。
−等価交換の関係
   ・義務と権利:「権利は義務と引き換えにしか得られない」
   ・努力/苦痛と報酬:「報酬を得るためには苦しい事を我慢すべき」

こういう「何かを出すことで何かが返ってくる」という論は一見構造的で数学にも似た「美しさ」を醸し出す。
けど美しいだけで、それが正しい保証はなんもないんだよね。
例えば「報酬を得るためには苦しい事を我慢すべき」なんてなってるけど、これは奴隷商人を利するだけの論で、
実際のところは最小の働きで最大の効果を得られるように動くのが最も合理的でしあわせ。
いみじくもこの稿の冒頭で書いたことに触れるね。

あと、以下をつかった論も
ー権威
 ・神や法や偉い人:「法律違反だからダメだろう」「マルクス曰く」
 ・難しい論:「高度な理論をつかってるから正しい」
 ・苦痛、苦役の礼讃:「貧乏は人間を成長させる」
 ・自然信仰:「地球とともに生きるべき」

難しいから早い、ってのは違和感があるかもしれないけど、
あまりに明朗で簡単すぎる論には人は警戒するので、逆に長すぎる論に魅力を感じるという事はある。
「早さ」を回避しようとしてかえって早くなってる、というよくある構図ですね。
また
一般的に確認される権威だから良い、というわかりやすい権威主義の逆に
パンピーから見た善しとされるものの反対だから良い、というスノッブなアプローチもある。

2:早い論の特徴

上に挙げたような早い論には共通する特徴がある。

●登場人物の少なさ
物語的な論に特に顕著。悪い人、と善い我々。といった具合に。

●覚えやすい
登場人物が少なく、それらの動機がわかりやすいが故に、早い論は覚えやすい。
●伝えやすい/共感されやすい
覚えやすい、が故に、伝えやすい
だから遅い論に比べて早い論はそれへの理解の早さから同意を得やすいだろう。

3:早い論はどのように流行るか

早い論は上記の特徴が故に、何度も発話され、何度も同意された、けもの道のような行き易い論だ。
飲み屋で交わされる会話のほとんどはこれだと僕は見ている。
アルコールのせいでうまく回らない頭にとって早い論は使いやすい。そして同調が必要とされる場に同意されやすい論は歓迎される。
こーいうときあまり一体感を得られないような発話をする人は発話空間からキックアウトされる。

発話空間では反論可能性の低い発話が選ばれる傾向がある。


どういう集団で早い論は選ばれ、膾炙するのか?
例えば、新左翼運動っていうのは「陰謀論」「権威」「難しい」と、活動を速くさせる為の要素が全てそろっていた。若者の為に。
逆に死期の近い方も若者とは別な理由で待てないわけで、老人の人の論に速さが見受けられるのもこういう所以か。
ネトウヨ新左翼老害右派も老害左派も、とどのつまり、待てない人たちのためが早く合意にたどり着くための手段にすぎない。 って事かな。

主義が手段に、ってのはおかしな文だけど、そういう事はままある。
集団としてまとまることが大事な場合、主義を使う事でまとまりを得られる。
そこに危なさがある。

B:早い論はどのように危ないか
体罰は早いか遅いか、で言えば爆速だろう。
論を文字通り身に沁みこます。
同意を得るための手段としてこれほど早いものはない。

けどそうやって得られた同意、というかこのコミュニケーションに価値はあるのか。
伝わったからといってそのメッセージに意味はあるのか。

僕らは伝わる事それ自体に価値を見出していないか。
遅さの方が良いという事はないだろうか。

C:遅い論とは何か逆に遅い論はなんだろう。 秘儀とか伝承には割と遅さが感じられる。例えば神学。 身体的な修得を要求する分野も結論にたどり着くスピードは遅い。  

つまり上に挙げた早い論の特徴の逆
●登場人物が多い
●覚えにくい
●伝えにくい
●共感されにくい
こーいうのが遅い論って事になる。
でもこれってすごくニッチというかカルト。
こういう遅い論を求道しようとすることはリスキーだし、相当なコストも払う。

一方で思うのです
ただ、伝えにくいだけで、こういう遅い論を持っている人は多いのではないかと。

悩みというものがあって、それに対して早い論で答えを出せる事もあるだろう。
例えば、「自分が苦しんでいるのは悪の組織が俺を妨害しているからだ!」
みたいに
ただ、よほど特殊な場合を除いて早い論だけですべての悩みに勝てるというのは想像しづらい

課題がドアで、それを開けるためのカギ穴があって、
悩みに対して正しいカギを探す行為が悩みだとすれば、
すぐに見つかる早い論のカギが合わなければ、何度も鍵束を手繰って合う論を探す事になる。遅い論ってのはそうやって見つかる。
これを繰り返すうちに早い論よりも遅い論の方が浮かび上がる泡のようにちょっとずつ使えるようになってくることはあり得る。

そういうことをずっと反復して来た人は、早い論の伝わりやすさの惑わされずに済むかもしれない。

これは習うよりも慣れろ、みたいなもんだと思っていいんじゃないかな。
これを「早く言えば」 
「逃げずに戦ってきた人は早い論に引っかからない」
となるね。まあ早い(笑)

他方、
カギに対して開くドアを探すというやり方もあるだろう。
早い論を使いたがる人にはこういう傾向がある。
インターネットのおかげで、僕らは解決しやすい悩みを見つけやすくなった。

早く、そして伝わる、
これらはいつもいつもいい事じゃない。
人類の発展のありようはどうもこの二つを重視してきたように僕は見る。

むしろ、
遅く、コトに、当たっていく。
それがあるべき場面。それはどういうものなのか、そんなアプローチがあってもいいんでないの。

体罰/パワハラに対する各個撃破、という方針案


12月下旬、大阪の桜宮高校で生徒が自殺し、この生徒が前日に体罰を含む厳しい叱責を受けていたことが明らかになった。
http://www.j-cast.com/2013/01/10160922.html


この事件を巡って、顧問を擁護する動きもあるなどしたことが騒動を一層大きくして
今週のネット界隈はこの話題が断続的に提起されるお祭り状態だった。
戸塚ヨットスクール校長 「自殺した生徒が悪い。他の体罰を受けた生徒は自殺してないだろ」 http://alfalfalfa.com/archives/6204653.html

この顧問が、「いい人であった」という見解が聞かれる。僕はそれについては「まあそうなんだろう」と思う。
誰からも嫌われる人ってのはそうそういない。
家に帰ればよき父であったり隣人であったり、誰かは必ず誰かの大切な誰かだ。
このニュースは「教師の中に異常者が紛れ込んでいた」という事では決してなく、
”「いい人」が誰かを死に至らしめてしまう事が「ありえてしまう」”という点で問題のある構造を明らかにしていると考える。
もう少し言えば
「こーいう」構造があることそれ自体はもう目新しさはなくて「またか」と多くの人は第一印象をもっただろう。
だから問題のある構造が問題だ、という事はもう誰もがわかっていて、
にもかかわらず、
この仕組みが温存され続けている。

だから
仕組みを回し続けている仕組み、の方をこの稿では標的にすべきだと考えた。
結論から言えば
体罰パワハラ反対」という批判それ自体が「わかってない奴らが批判している」という物語の発生を許している。

迫害されればされるほど「あいつらはわかってないから批判している、よって批判されている俺らはわかっている」と防御的に結束が固まるタイプの団体がある。 例えば、ヤンキー、体罰容認、パワハラ容認、男尊女卑思想、カルト教団などがそれだ。
こーやって並べると共通項がある、序列制/階級制が強いという点だ。

階級制っていうのは実は維持が難しい。なんせ階級もまたフィクションだし。
階級の正当性の物語がどこかで担保され続けていないと容易に下剋上や崩壊がおこる。
そこへ
「わかってない奴らの批判」ほど助かるものはない。なんせこーいった団体は「勝つ」事が目的である場合が多く、批判する人たちっていうのは「勝ってない」ケースが殆どだから、「負け犬たちが批判している、だから彼らは負け犬なのだ」とこのような論理がなりたつ。
いまネット界隈で話されている事件に対する空爆のような批判はかえって逆効果ですらある。

今現在、この手のマッチョ思想を実践している人で、桜宮の事件を受けて明日から体罰パワハラをやめるような人はいないだろう。 過激かもしれないけど、「まれに自殺者が出る」という事は織り込み済みになってる節がある。「稀」と認識されいる事の一個を見て「稀ではなくて良く起こるのか!」とは気付かない。「稀なケースが出た」としか思われないんじゃないかな。

よって、
この手の思想を駆逐するために「僕らの論理」はあまり効果が無い。っていうか減らない。
踏み込んで言えば、体罰パワハラと戦うためには、正しいか正しくないかという切り口を捨てる必要がある。
捉え方としては、病気みたいなもんだと思った方がいい。
病原菌に対して「そうやって宿主を攻撃しても結果的には君も死ぬよ」と正しさを説いても勝てない。実際この手の思想って感染するし。

では病原菌にたいして、どうすればいいのか。
地道な「各個撃破」という事になる。わかりやすく言えば「摘出」ですね。

桜宮高校の例の顧問が「いい人」だったかどうか、ってのはあんまり意味がない。どんないい人だって車で人身事故をおこしたら免許を取り上げられるように、「各個撃破」という戦い方が一番効果をあげられるんでないかな。

もう少し具体的に言えば
「どーいうタイプの人間」が「体罰パワハラを用いて誰かに害をなすか」という傾向はすでにわかっていると考えられる、
パワハラ/体罰から自殺に至らしめる事例が一個あったら、それ以前のヒヤリ/ハット ケースの列挙は可能だ。
そういうケースを頻発させている人間を個別に摘出していく必要がある。

どうやって、
それはもう本当にそれぞれの人が個々の現場で戦うしかない。
なんか無責任なようだけど、遠回りの方が目的地にたどり着く、という事はあるよね。

このとき、
マッチョ思想と戦うコツは、
階級闘争」だとは思わない事、「階級闘争」を戦うという事は「階級の物語」を肯定する事になる。
単なる「治療」ないし「手術」、その方が気も楽だし、その手の人を失脚させるときに良心も傷まないよ

では、はりきってまいりましょう