ヤンキー性と宗教、あとナショナリズム

宗教者でなくとも、宗教的であることが可能なように、
ヤンキーでなくてもヤンキー性を持つ事は可能だと思うんだよな。
むしろ
それなりの数の人が、それなりの心の割合をヤンキー的ななにかに明け渡しているのではないか。
さらにいえば、宗教とヤンキーは実は同じ事の変奏でしかないのではと直観している。

そのつながりを発見しようとする作業を通してなんかこの時代の気持ち悪さの問題の輪郭をとらえられるんではないかとこう思うのです。


1:ヤンキー性とあなた

人という、人の心に一人ずつ、ヤンキーがいて何かと強がる

心の中にビーバップハイスクールの人たちがいるとかそういう事ではなくて
ヤンキーの人が言いそうなことを、僕らはわりと普段から言っていないか、
そういう指摘です。

例えば、
「のし上がりたい」
「俺は俺として生きていく」 
「仲間を大事にしたい」
「マジ親に感謝」
「我慢がお前を強くする」
「地元愛」 

これらはヤンキー性を帯びている。そう思いませんか。
でも、誰もが言いそうなことではある。
っていうか、一般に「善し」とされているものの多くはヤンキー性との接点があるんでないかな。 

こういう文はさ、なんていうか反論不可能性がある。
「仲間を大事に」っていう発話それ自体に反論は不可能だよね。
だから公理的であるといえる。
公理って言うのは、「そういうものだとして扱う」定義の事で、例えば「平行線は交わらない」とかそういう類の文です。
反論不可能な文、それ自体は悪い事ではないし、そういう事実で世の中はあふれている。
例えば身体的感覚に基づいた直観を当人は否定しづらい。
否定しづらいからこそ僕らはあまり合理的でない行動を取ったりする。
「なんとなくこっちの方がいい」みたいなアレね。

「人を殺してはいけない」
みたいな訓を論理で説明する事が良いとは思えないし、必要とも思えない
「自分が殺されたら嫌だ」
という身体的感覚のレベルまで引き戻して教えないと、皆が了解すべき事項として必要な水準を満たさない。

だから反論不可能な文、それ自体はもう「在る」モノとして扱うしかないだろう。
あきらめるわけではなくて、税金みたいなもんで、初めから計算に入れてあつかう。工学的に。

僕らはこういう公理を必要としている。
先稿の「早い論」でも繋がるけど、この手の「早さ」と「信念」による突破力を僕らは必要としている。
人間の思考能力には限度があって、すべての課題を思考の水で満たしきる事ははっきり言って無理だ。
考えれば考えるほどこの世には不確定性しかないという事に気づいてしまう。
だから、あらかじめ作られた水路のようなものでもって、
とにかく突き抜ける
それを必要としている。

そんなとき上に挙げたようなヤンキー性はひどく魅力的だ。

なぜ我慢が必要なのか、
 それは我慢がお前を強くするからだ

なぜ仲間といるべきなのか
 それは仲間が大事だから

なぜ俺は俺なのか、
 それは俺が俺だから

そういうの
あったほうがいいよね。と思えるよね。

哲学的な視座に立ち返れば、人間にはいつだって外部がある。
外部の不条理と戦う時、なにかよって立つ支えがある事はとても大きい。

僕の観察するところでは、ヤンキー性というのは若者が外部と戦うための重武装みたいなもんだ。
でもって
戦うすべての人の為にヤンキー性は準備されている。

こうやって持ってくると、ヤンキー性がなぜヤンキーでない人にも必要とされるかすこしわかると思う。
不条理から逃げ切る事はできないからだ。
もちろん濃淡はある。
不条理を強く感じる人はよりヤンキー性を必要とするし、幸運にも自分の意思が正しく世界とつながっていると感じられる人はそれほどに必要としないだろう。
可哀そうな生い立ちの人がヤンキーなのは、そういう人たちにヤンキー性がより求められているだけの事で、ヤンキーでない人はそのあたりからただ遠いのに過ぎない。同じ線の上に乗っているのだ。

宗教も多くの場合気の毒な人から広まる。

*2:宗教とヤンキー、あとナショナリズム

「宗教は死への恐怖から生まれた」と置くならば「ヤンキーは社会への恐怖から生まれた」となる。

宗教もまた公理を提供する。
神が決めたならば、それは正しい。
神が言っているから、信じるべきだ。
正視できない人生の不条理に直面した時に、こういう話が救いになる事はある。
どの地域でも死の不条理が宗教によって贖われるのにはこういう理由がある。

安心がここにはある。
安心をもたらす公理系を自分たちの肉として生きる事ができればどれほど幸福だろうか。

ところでだ。
ナショナリズムもそうだよね。
先の構造にナショナリズムをはめ込むならば、
ナショナリズムは外国人への恐怖から生まれた」となるかな。
ナショナリズムもまた気の毒な人たちから広まる。
人種差別意識が強いのは単純労働者という説がある、単純労働者ほど外国人の単純労働者との衝突が多いからだ。

宗教が死について独特の物語を持っているように、ヤンキーは社会について独特の物語を持っていて、ナショナリズムは外国人について独特の物語をもっている。
その独特さについて、理解不能な事が多いだろう。
でも公理系なんてそんなもんだ。
この三つは特に外部と戦う為に用意された公理系みたいなもんで、外部の立場からやって来てそれに触れようとするとき酷い反撃を受けるのは仕方ない。

宗教もヤンキー性も、そしてナショナリズムもすべてもっているのは、
とにかくその外部への強烈なまなざし。 自意識過剰と言ってもいい。 

それはどんなふうに危ないのか

*3:何が危険なのか

僕の立場としては反論不可能な文それ自体になにか危険なものが宿っているとは思えない。
だから反論不可能な文、それ自体はもう「在る」モノとして扱うしかないだろう。
あきらめるわけではなくて、税金みたいなもんで、初めから計算に入れてあつかう。工学的に。

問題はその使用。

こういう反論不可能な公理は、あるものに使われるとひどい効果を生む。
例えばブラック企業だ。
「我慢が成果を生む」
「世の中は甘えていて、俺たちはトガっている」
「夢を信じて生きていこう」
こういう反論不可能な文でもって人を無茶なミッションに駆り立てる事は可能だ。
それは大抵のばあい、悲劇的な結果を生む。
ナショナリズムも同様。


また、体罰は優れてヤンキー的だよね。
暴力を理解しようとする。という事すら人間は出来る。 だから体罰が効果を持つわけで。 自分を攻撃するものまでがメッセージでありうるってのは、僕には決してそうは思えない。
「繋がろうとする」事の危険さがここにあると思う。
体罰やDVによって生まれる類の絆もあるわけよ。「絆」それ自身に善性は無いといえる。
せんだって「絆」が世の中にあふれたときにそれに猛反発した人たちは、危ない絆に触れた事のある人たちでないかな。そしてそれは相当数いるんでないかな。 
ヤンキー性は絆によって社会と叩こうとする物語であって、その絆には暴力も含まれる。
「仲間が大事」
それはそうなんだけどさ、
暴力によって成り立つ仲間を僕らは否定したはずではなかったのか。

近い話でミッション化も危ない。ここでいうミッションってのは布教の事
ミッション化したヤンキーってのもいるよね、 ヤンキー的でないものを攻撃する事が好きな人。 飯食いに行ったときに横に座った男二人組の片方がこのパターンという事が多い。 もう片方のヤンキーが聞き役タイプだとなりがち。
ヤンキーにしても宗教にしてもナショナリズムにしてもミッション化しはじめると、いい事があんまりない。てかほとんどない。


この稿は、ここまで指摘してきたような危険をどうこうできる処方箋は提出しない。
ただ気を付けて使おうね、と今はしておく。