「思いやりの国」の終焉

春も近くなってきました。
春は新しい季節。職場や学校が新しくなることになり、そこへ適応できるか心配になりはじめる人も多いと思う。
なんか、出だしでつまずくと取り返せない。みたいな不安ってあるよね。
新しい場所になじめない人は負け犬、みたいな価値観もあるよね。

でも
適応、って必ずしもいい事ばかりじゃない。
むしろ、いまこの国では「適応しすぎ」「つながりすぎ」による巨大な事件がおきつつあると僕は見ている。

せんだって、「絆」という語をありがたがった時期があったけど、
やみくもに信じていい言葉じゃない。つながりすぎる事によって死ぬことよりも酷い目にあうこともある。

そういう話を以下します。

●環境とつながる、人の輪の中へ心を同調させる

さて
進化論は「強い種が生き残るわけではなく、変わることが出来て環境に適合した種が生き残られる」というのはよく信じられてるけど、
実は「変わりすぎ」て滅亡した種もかなりある。
恐竜は「大きすぎて」滅亡したし、マンモスは「牙を大きくしすぎて」絶滅した。(諸説あり)
その時々の環境とつながりすぎて離れられなくなってしまった。と言い換えたい

で、
人間関係にも同じ事があると思う。

身体と違って心はすぐに環境に適応できるか?そうでもない。
明日から翼を生やして生きていくことができないように、明日から心に翼を生やして自由に活動する事も出来ない。
しかし、
なにか与えられた環境があったとして、その中で過ごすために心をそこへ少しずつ沿わせて行くことは出来る。
人間関係や仕事環境のなかに徐々に入っていく活動の事だ。
これを人の輪に同調していく、とここで言い換える。

この能力は人間のもつ資質のうちでも特筆すべきものの一つだと思う。
どんな場所に行ってもそこへ合わせて自分を作り変える事は生存に必要な能力だ。

例えば、
大学にカラオケが好きな友達が多いので自分も歌う事が好きになる。
ゆったり過ごす事が好きな恋人と交際し始めて自分もそういう時間が好きになる。
勝つ事。が是とされているチームに入り、勝つために何をすればいいか自分も考え始める。
ブラック企業に入り、長く、しかも無給で働く事に喜びを見出していく。無給で働こうとしない人を差別するようになる。
暴力で支配される宗教に入ってしまい、自分も暴力を振るい始める。

DVを最端の例とすれば、そこへ至るスペクトラムの前の段階としてぬるめの共依存関係が見つけられると思う。
恋人同士、ある種の体育会系組織、家族的企業、同郷団体、クラスのなかの集団、同好の士、
どれも無害ではあるけど過剰同調が始まると徐々に端へと歩きはじめる

僕が問題としたいのは、
上にあげた例の下の方。
ゆきすぎた適応、つまりマンモスの牙のような過剰同調のことだ。

いま、それが起こっているのか?
少なくとも日本ではそれが起こっていて、それが問題になりうると僕は見る。

●日本で起こっている同調のレース

昔から日本は同調圧力が強いと言われてきていて、日本人も外国人をこれをよくわかっているようだ。
けど、「相手をおもいやる」「相手とつながりを持つ」という事それ自体は世界中でわりと肯定されている美徳で、
これを全くしなくても甘受される地域ってのはあんまりない。

ただ、僕の見るところ、
「思いやり」「つながっていること」これが日本では美徳どころか序列のための格付けの基準となっている。と感じる。

例えば、
「思いやりのある政治家」についてみなさまどう思いますか。
「私は優秀であり、私はみなさんよりも正しい判断が出来る、私に議員の仕事をやらせて、私に税金を使ってくれ」
これを言っている人の中からより確からしい人を選ぶのが本来の選挙だろう。
けど現実は「私は庶民であり、皆さんと同じ目線で考えられる」的な政治家が好まれる。そうではありませんか。
あまつさえ「無給でいいです」とか言い出す人が現れる。

アメリカでもあんまりスノッブな政治家は好まれないから、出来るだけお金持ってないことをアピールしたりするけど、
「無給でいいです」はさすがにない。行き過ぎた庶民派アピールは「ショボイ」とすら見られる

「思いやり」は確かに政治家の必要条件かもしれないけど、それが日本では十分条件のように扱われている。
なぜか
それは「人間は思いやりによって序列が決まるので最も思いやりのある人間がトップに立つべきだろう」という変な了解ができているかだ。
「能力」よりも「思いやり」なんてあやふやなもんで統治者を選ぶ、そういうおかしな状況がある。

別な見方をすれば
これは利他行動のレース、より利他的である人間が選ばれ、尊重される。そういう現象だと思う。
他の人よりも「同調」できる人間、もしくはそういう人間であると思わせられる人間の地位があがる。そんな競争だと思えばいい。

ここ10年の就活市場で「コミュ力」に異様なフォーカスが当たっているのも同じ、今の自分の会社により「同調」出来る学生が好まれる。

政治や経営のようなマクロ的な面でなく、ミクロな身の回りの生活の中でも「つながっている事」それ自体が優劣を決めるモノサシとなるような構造があると思う。

例えば童貞差別だ。
本来セックスは個人の物なので誰かが童貞であるかないかというのは、「フォアグラを食ったことがあるかないか」という程度の問題でしかない。
にもかかわらず
童貞であることによって人を一段劣った人間とみなす事が出来る、そういう物語がある。
当の童貞自身がその物語を信じているから始末に負えない。
なぜなのか。
童貞を捨てられるという事は、セックスを女の子に許可してもらえるくらいその男の子は他人とつながる事が出来る。という証拠になり得るからだ。
セックスを許可してもらえていない男の子は他人とつながれていない。これを一段低く見る向きがある。
だから童貞をいかに早く、いかにショボクなく、捨てるか、そういうレースがある。
逆に「フォアグラを30歳までに食べた事のない男はヤバい」なんて話は出ない。

もう一つ別な視点からも、
ひと時、西野カナが「会えない」辛さを歌って流行ったが、
うがった見方をすれば
「会えない」事によって自分の社会的位置がひどく低いものと感じてしまう女の子の辛さを歌ったものと捉える事が出来ると思う

さて、
なぜこんなわけのわからないレースが起こるのか。

●何が過剰同調を生むのか

過剰同調のエネルギー源は一言で言えば生存欲求という事になるんだと思う。
社会階層からの転落に対する恐怖がある中で、ある階層に根をおろした集団にとにかく同調して繭をつくれればそれほど安心なことはない。

子供はそーゆうの凄い気にする。
親に気にされるしね。
「学校に友達はいる?」って
自分も親だからそうなんだが、子供がいじめっ子になる事よりも、いじめられっ子になることのほうが嫌なんだよね。
たぶん俺も含めた親はその保護欲を有形無形に子供に浴びせてしまってると思う。
それを感じ取った子供はとにかく階層から振り落とされないように過剰な同調を行いはじめる。

特に、
今みたいな、普通でいることが難しい時代にはその保護欲は益々強まるだろうな。
じっさいいまどきの、親のための指南本や雑誌には「子供をニートにしないためには」みたいなコラムがかならず載ってる。普通の人である事が難しくなればなるほど、普通の価値が高まる。

やや話はそれるが、ほんの十年位前まで、「普通でいること」は文字通りデフォルトであり、そこから離れるかどうかは選択的だったように思う、今は「普通に学校法人に行き」「普通に友達をつくり」「普通に就職し」「普通に勤め続け」「普通に結婚」することすら、なにかひどく高いハードルがそれぞれある。90年代、「普通でいるべきかどうか?」が問題であったのに対して今は「普通でいられるか?」が課題になってると思う。
かつて伊集院光のラジオで
「親父のように平凡なサラリーマンの道は歩きたくない、と昔言ったが、いま凄く歩みたい!」
という投稿が読まれたあたりが転換点だった

でまあ、今の子育て世代って大なり小なりその転換点を通過してきた人たちだから、益々子供にたいして「パイプラインから滑り落ちないか」という注意が強くなる。
パイプラインから落ちた例をいっぱい知ってるしね。そして、人間関係でつまずくと、他の形で挽回するのが困難ということも知ってる。

話をまきとる。
どうして日本は思いやりの国へと進化したのか。
それはおそらく数十年前くらいに、ほんのわずかな「普通の人々に対して同調しないとヤバい」という親の焦りが子供に伝染し、
そうやって育った子供が同じ焦りをそのまた子供へと伝染させる。それがここ10年くらいで社会状況の追い風を受けて「普通でいないと死ぬ」へと加速したんだと思う。

一旦その方向へ社会全体が定向すると、加速的にその向きへ進み始めるという現象がある。
株式市場がいい例だ。
なぜ投資をするべきなのかというと、皆が投資をしているからだ。という流れによってどんどん投資が加速する。

他方、こういった同調圧力の原因を求める時に、よくなされる「日本人は村社会だから同調圧力が強い」という説明は買えない。
ヨーロッパもアメリカも、歴史のほとんどが村社会だし、現代だって生まれた町で育ち、そこで結婚してそこで死ぬ外国人はいっぱいいる。 なにか「日本古来特有の器質」を日本的諸悪の原因とするのは無理がある。

●それの何が今よくないのか。

そいで話をまとめると、株式投資に乗り遅れると、あとから乗るのがドンドン大変になるのと同様に
これからしばらく僕らはむせかえるような過剰同調の汚染に悩まされると思う。
わずかに同調をしくじるだけで即座に弾き飛ばされる。

能力や資質で挽回しようにも今「才能」「能力」なんてもんは世界中の好きなところから買ってこれる時代になった。

そいで、どんな事件が実は起きてるのか、というとですね。
ある集まりへの過剰同調のあまり、他の誰とも同調出来なくなってしまうという固定化ですよ。 少しの環境の変化で絶滅すらありうる。 一言で言えば「絆つよすぎ、みんな死ぬ」

一度、絆を結んでしまったが最後。
そこを抜けてほかの集団へと同調しようとすると即座に同調力が弱まったのを今の集団に見抜かれ、全力でキックアウトされてしまう。
または今の集団に同調するのに必死で、ほかの集団が目に入らない。

本来自由に情報を見つけられるはずの、ネット空間でもそういうところありませんか。

自由の量が多いはずの時代に、自由でなくなる、そういう事件だと思うのです。

誰か特定の人たちを思いやりすぎて、それ以外のだれも思いやれなくなる。 そーいう形でこの国の思いやりは終わる