人と言う人の心に一人ずつ マッチョがいて うるさく悲しい

第二子の出産まで残り数週となったこともあり、病院で両親学級を受けてきた。
助産師さんが陣痛のメカニズムと陣痛中の過ごし方、その間に夫がやるべき事などを教えてくれる。
なんせ長男の出産は5年前で殆ど出産関連の事を忘れてしまっていたので大変勉強になったのだが、
「夫が腰をさする時は気を集めてからやると効果的ですよ」
などどややスピリチュアルがかった事をたまに言うので可笑しかった。

ただ、
こんなもんはまだ甘い方で、出産とそれに続く育児にはとかく出自不明な怪しい言説が多い。
一応4年程度育児しながらその手の文の森をさまよった。
有名なのだと「母乳神話」「手作り料理神話」といった言説たちの事ね。

この手の「べき論」な文ってさ、
育児に限らずなにかの悩みなどを勢いで突破したい時には非常に便利なんだけど、
反面、根拠の怪しい「べき論」はそれを使う自分自身を苦しめるし、権力者による搾取体制の強い原動力となる。

結論を引き寄せて言えば、
一人一人の人間の中にマッチョな奴がいて、そいつが自分を苦しめ、さらには不幸を生み出す仕組みの建立に一役買っている。
そんな風な息苦しい現象が起こっているように見えるのです。
なんでそんな風に見えるのか、以下つらつら行きます。

●日常の中にある反論困難な文
日々あちこち、反論困難な文だらけです。

「赤ちゃんは母乳で育てられるのが一番」
「子供を家において遊びまわるのは慎むべき」
「子供は泣いて強くなる」
「母親の手作り料理ってのはいいもんだ」
「人生ってのは辛いことだらけだ」
「仕事とはしんどいものだ」
「彼女を泣かせる彼氏は最低だ」
「他人の気持ちを考えられない奴は価値が無い」
「人を見た目で判断してはいけない」
「無職じゃかっこ悪い」
「親を大切にしなくてはいけない」
「俺は俺として生きていく」
「愛してるの響きだけで強くなれる気がする」

とまあこういう文の事ね。
こういうのを場面によっては文化と呼ぶし、愛とかとも呼んだりするんだろうな。ヤンキー性を帯びたものもある。宗教と呼ばれる事もある。
悪く言えば「綺麗事」

この稿で言う反論困難な文てのは、
単に根拠が薄いとかそれだけじゃなくて、
この文を使った発話がなされたときに、「そうじゃないだろ」とは反論しづらい、反論する事に得があんまりない。ってか損になる。
反論したとしても「感覚の違い」で済ませられてしまう文。そんな文の事を言っています。
建設的な議論をしたい時にこういう文を持ち出されると困るよね。


冒頭のとおり、育児にはこういうのが多い。
例えば「母乳で育てるべき」ね。
「母乳神話」でググると「母乳でそだてるべきなのに母乳が出ない」と悩むママが多い。
妻も第一子の時、母乳の出が悪い時期に子育て教室的な所の先生にネガティブな事を言われ落ち込んでいた。
僕が「『そんなに母乳が大切ならお前が母乳飲んでろ!』って先生にビシッと言ってやろうか」
と慰めたら笑ってその件は流れた。

母乳で育てた方がいいという科学的根拠はない。
っていうかここではそういう事にさせてください。
この稿を書くのを機会に、どんな根拠で母乳が推奨されるのか色々さがしたけど、
母乳のメリットを説明するページも「天然成分だから」「温度がいいから」「自然だから」程度の情報しかなくて大変難儀した。

ていうか、
事実に基づかない怪しい論の為に世の親たちは振り回されている。それ自身は事実なのです。
●なんで反論困難な文が使われるのか、なんでそれはまずいのか。
もちろん、世の中のすべての発話が事実に基づいてる必要なんてない。

それどころか、事実に基づいてない方が便利な事なんてたくさんある。
僕らは一日中建設的な議論だけをやってるわけではないし。根拠を問われない方が幸せな事もある。

自分も親だからわかるんだけど、
子供を叱る時って理屈が使えない時がある。「人を傷つけては行けない」を理屈で教えても小さい子には理解が難しい。「そういうもんなんだよ」と反論不可能な公理として身体的に伝えるしかない。
他方、
ずっとこればっかやってると果たして子供と親の関係って健全と言えるんだろうか。
例えば、体罰をした親が「悪い事をした子は叩いてもいいんだ」と自分を正当化して子に教えたらどうだろう。
それってその子供が「悪いことをした子は叩いてもいい」と思うような子供になるって事だ。だってそう教えたんだろ?
けどその為に、「悪い事をした他の子」を正義で持って叩く子供になってしまうリスクがうまれてしまう。
それって考慮されてるんだろうか。

もっと言えば、
将来その子が誰かに叩かれたとしても
「叩かれるという事は自分は悪い子だから」となっても不思議ではない。
こんなに都合のいい奴隷はいない。

別な例、
「人生ってのは辛いことだらけだ」
「仕事とはしんどいものだ」

これもよく聞く文。
なにかしんどい事があったとき、こう自分に言い聞かせる事で癒しはあるよね、
別に辛い一日があったからと言って、それを人生一般に拡張する必要はないのにさ。
けど使ってしまう。癒されたい時に根拠なんて求めないから。

くるって回転してみれば、
何か人に辛い事を強いたい時に実に便利にこれを使える。
例えばブラック企業で。
「無職じゃかっこわるい」
これも「無職恐怖」で社員をいいようにしたいブラック企業には有利だよね。


「彼女を泣かせる彼氏は最低だ」大事な事です。クズな男っているしね。
ただ、時と場合にもよるが、泣くほどの感情の発露が無い人間関係に何か深みがあるんだろうか。
この文によって、彼女に対する無用な気遣いと距離が生まれる事だってあろう。

「人を見た目で判断してはいけない」たしかにそうだ。この文によって、見た目になんらかハンディがある人でも対等の場にたてる。
でもさ、他人ときちんとした関係を作りたい人は他人にどう見られているかを大事にするよね。
だから場面に応じてそれなりの身なりをしている。
「服装とメイクをマリリンマンソンに似せていますけど、ケーキ屋という職場で頑張りたいと思います」
というのはないだろ。

●誰が得をしているのか
この手の文は、
根拠がいらない、から「そういうもんだ」と思われている。
と言うよりは
広く一般に「そういうもんだ」と思わているから、根拠がいらない。
何故なら「そういうもんだから」反論されえないので、根拠を提出する必要がない。
こゆことではないかな。

「いつ」「だれが」「どういう目的で」これらの文を言い出して「そういうもの」にしたのか。
都市伝説の発生源調査みたいなものでそこを探る事に意味はあんまない。と考えている。
ていうか無理。

ただ、これらの文って僕の観察では
「人を追い立てている」ように出来ている。
と見える。
まあ「反論困難」なんだからそりゃそうだよな。
言い返せないんだから、言われた通りにしなくちゃいけない。

という事から、
これらの文の作者はわからなくても、これらの文で得をしている人はなんとなくわかってくる。
例えば僕だ。
先述のとおり、親としての僕はこういった文をつかって子供にいろんな事を教え込んでいる。

つまり、
人を追い立てたい人。
もっと言えば、
「自分で自分を追い立てるように人を教育したい人」・親
・教師
・雇用者
この手の人たち。しばしば誰かの息苦しさの源となったりする人たち。
この人たちが「そういうもんだ」な文を使う事で得をするようになってる。

別に、悪意があってやってるとも思わない。
僕も含めそれぞれの目的があってこうしてるのであって、なんていうか何か罪があるわけではない。

ただ、個人の感じる息苦しさのそれなりの原因とはなっている。

●個人の問題としての反論困難な文
こういう文ばっかり使ってくる人を、便宜的に「マッチョ」と呼ばせてください。本来の意味から外れるのは承知で。
マッチョと言う語から連想する映像的イメージがしっくりくるもので。

こういうマッチョが、誰の心にも一人ずつ住んでいる。
僕自身についてはそう思う。
そんでいろんな人の相談にのったりして観察している限り、皆そうでないかな。と感ずる。

だってそうだろう。
教育や躾けの目標は自分自身を監視する看守を作る事だろ。
「学校を卒業しても一人でやっていけるように」
「上司や先輩に教えられなくても仕事ができるように」
教育するのであって、
自らの内側に「そういうもんだから」としか根拠を持たない文を言ってくるマッチョを住まわせておくようにする。
これが「身体に教え込む」の正体。

みんななにかしら「身体に教え込まれて」いるよね。

根拠は無くても「そういうもんだろ」と脊髄反射のように投げ返す誰かが誰かの中にいる。
その事に慣れている。

その結果どうだろう。
どこか楽になれるところや、いままで行ってみた事のない所へ自分を運びたい時に
「それはすべきでないだろ、何故ならそういうもんだから」とマッチョが言ってくる。
それって息苦しさそのもの。

●出口
そんでまあここまでダラダラと色んな話を並べ替えてきました。

で、残念だけど、
漬物のきゅうりが元のきゅうりに戻る事ができないように、このマッチョを追い出すのは無理だろう。
それって自分を律する機構を無くすって事だしね。
ただ、
このマッチョが「居る」と意識する事にそれなりの効果はあると思うのです。
「そういうもんだ」と反論困難な綺麗事を言ってくるのが、自分なのか、それとも他人なのか。
そうする事で「自分すら自分の味方じゃない」って状況は避けられると思うよ。

一旦、この程度で。。