ヨイトマケの唄:現代の職業と身分:無職を差別する無職


あけましておめでとうございます

晦日の紅白よかった。
とくに美輪明宏ヨイトマケの唄」派手な演出や技巧が無くとも何かを伝えようとする人間の思いだけでこんなに深く刺さるものだとじんわりした次第。

聞けば、この歌は「ヨイトマケ」「土方」などの差別用語がある事からテレビで歌う事が難しかったそうな。
そこでおもったんだが、
「なんで職業がその人の身分を表すようになってんだ」
という素朴な感想だ。

フラットに考えれば、職業は「自分がなりたくてなる」もので、身分は「なりたくないのにそうである」ものなので「職業=身分」って考え方はおかしい。

にもかかわらず、現代の、少なくとも僕の知る日本では
「職業=身分」
という世界観があるように僕には見える。
なんでそう見えるのか、なんでそれは見えづらいか、そしてそれはどういう風におぞましいのか。それを分解する。


①「職業=身分」という世界観があるかないか
現代に身分性はある。
現代に身分制がねえなら、どうして女性誌の「男の職業別落とし方」特集に出てくる「職業」は、マスコミ金融IT外資系コンサルばかりで、「飲食」「土方」「介護職」の男を如何に落とすか、みたいな視点の特集はねえんだ。
男だってわりと露骨に「CAはこう落とせ」みたいな指南がある。
こと男女の関係においては、割と動物的な情動が支配的なのでパートナーの身分で自分の身分が決まる風にもなる。

また
そもそも人類の歴史の大半は「身分によって結婚相手が限定されていた」時代なので、自由な選択が基本である現代にあって選択した相手の「職業(身分)」で自分の身分が決まる、と思う人が増えるのは無理からぬと思うですね。

数年前に「格差社会」があるかないか、という議論があったけど、「経済的な」格差は別として「文化的な」身分というのはある。

別な角度でこの世界観を意識するのは「無職」の存在だ。もっと言えば「無職差別」の存在だ。

職業=身分の世界観を仮定すると、
無職っていうのは、どの職業の者からも差別可能な逆スペードのエースみたいな便利なアイコンだと考えられる。
観念的な話をすれば、差別っていうのは「外の」「少ない」人間に対して行われる。
無職の人っていうのは、当たり前だけど職業階級の外にあって、当たり前だけど「少ない」
どんな卑しい仕事の人だって無職を差別する権利がある。と思わせてしまう構造がある

だから「無職差別があるかどうか」という観察から職業=身分の世界観を観察できる。
で、無職差別はあるよ。
「無職はダメだ」という人はその思考はバカの壁でないか考えてみた方がいい。

無職がダメだから、結婚相手が無職だと躊躇理由になるんだろう。
無職がダメだから、就活に学生は必死になるし、ブラック企業にすらすがってしまうんだろう
無職がダメだから、解雇を恐れるんだろう。
無職がダメだから、「選ばなければ職はある」みたいなバカげた話が出てくるんだろう。職を選ぶ事は全うでないのか?
以上の情動よりも、無職になっても幾らでも道はある、という実証された合理性が優先している?
していないから、ほとんどパニックみたいな以上のムーブメントが観察できる。

だから「職業=身分」という世界観はわりと広くみんな暗黙的に持っているよ。僕にはそう見える。

実際は無職って言うのは選択の結果に過ぎないので、その人の資質とはなんら関係ない。
にもかかわらず
「職業=身分」の世界観ではその人の身分と結びついてしまう。
身分が劣っているから資質が劣っているわけはない。わけはないのだが、そう思わせてしまうのが身分制だ。

無職は駄目だから働かなきゃ、
という聞こえのいい話を行う人は僭越ながらその発話が差別意識に基づいてないかの自己点検がオススメ


②「職業=身分」の世界観を見えづらくしているものは何か
現代以前の身分によってつける職業が決まっていた時代に比べれば、少なくとも本人次第で身分に関係なく職業が選べる時代というのは幾分かマシに見える。

Yes, but
マシはマシでも、身分制の根幹はかわってない。むしろ制度としての認識が後退した事の弊害すらある。
身分制の認識が薄いのはまずもって
「現代は自由な世の中」といういい感じの了解が教育その他を通じて膾炙しているので、
「身分制?ないよ?」という脊髄反射が問題なのが一つ。

さらにもう一つの聞こえいい言葉
「努力、素晴らしい。頑張ればどんな職業にもなれる」
この文による身分制の漂白感がひどい。

この文の行きつく先は、
職業=その人の努力を表すバロメーター、みたいなとんでもねえ論理だ。

善い職業についていない人は努力が足りなかったのか!?
「君には選択肢があった、今の結果に不満なのは、君の努力を怠った選択のせいだ」
こういう突き放す発話すら可能になる。

見た目の美しさだけでなくその人の総合力を評価するミスコンにしよう!
という発話が「人間コンテスト」みたいなおこがましい発想に結びつくのと一緒

「どんな夢も自分があきらめなければ叶う」みたいな反論のしづれえ文が現代のメインメロディーになってるせいで
「身分制は過去のものだ個人の自由(と努力)さえあれば人はなんにでもなれる」という発話が許されているがために、
かえって「暗黙の身分制」がより見えづらくなっている。

「努力、素晴らしい。頑張ればどんな職業にもなれる」
という文を否定しているようにとれるような論旨の運び方をしているのは自覚しているけど、
有り体には、自分の努力だけで今の「善い職業」を得られた人なんていないわけで、全うな感覚を持ってる人だったら「いろんな人のおかげで」今の自分があると実感するんじゃないかな。 努力だけでは不十分なんだ。周囲の人がいないとその目標には到達できない。
だから否定しているんじゃなくて、ミスリードだと言っている、嘘ではないが弊害が大きい。
以前書いた「夢=職業」のエッセイとここで繋がります。

「夢=職業」であってはいけない
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/20120617/1339916575

つまり
●職業の選択ができる。という事実がかえって「職業=身分」制を見えにくくし、さらに強化している。
③「職業=身分」という世界のおぞましい所
「職業=身分」制をどうして攻撃しなくてはいけないか。
それは、これがブラック企業を成り立たせしめている仕組みの駆動部分だからだ。
そしてその駆動は他ならぬブラック企業の被害者である雇用者が回している。

以上で見てきたような「あんな無職みたいな奴らにならないように働く!」というこの差別意識は、強い。
差別意識は強い情動だ、強すぎて合理性すら超越する。
情動は不合理な選択を人にせしめる。時には自ら死を選ばせることだってある。

ブラック企業で奴隷的な待遇を甘受する人が減らない。
それは、申し訳ないのだが、そういう方たち自身にも責任がある。
ブラック企業をやめる経済合理性よりも、身分転落の回避を優先した結果としてブラック企業にしがみついてしまう面はあるだろう。

今日本でよく聞く「雇用がなくなる大変だ!」という話はさ、「明日の暮らしが大変だ!」という経済的な不安も勿論あるだろうけど、
本音は「明日から披差別側にまわるかも!?」という身分落伍の恐怖の方が強いって実態があるんでない?

だからブラック企業の問題は、単純な法整備とかのトップダウンのやり方で解決できない。
職業についての僕らの世界観それ自体をいじらないとどうしようもない。

今年もよろしくお願いいたします。

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか。そしてなんでそれはダメなのか

年の瀬だし、なにか季節ネタという事で
この時期になにかとドラマ化されたりする忠臣蔵批判を行います。
大げさに言えば、ここから日々人が感じる薄気味の悪い部分に触れる事ができるんじゃないかと思って。

12月14日になるとニュースの「今日は何の日」コーナーで「赤穂浪士の討ち入り」の日と紹介される。新年になれば4時間くらいのドラマがテレ東あたりで流される。何年かに一回映画になる。

日本人は忠臣蔵の物語が好きだ。

けど僕はどうしてもこれがイイ話だと思えない。


気がふれたとしか思えない前トップの資質を疑う事もしないで
一年以上ぐだぐだ結論を引き伸ばし(途中女遊び含む)精神論/根性論をこねまわしたあげく、
結局奇襲突撃して可哀想な老人をリンチして最後は全員切腹

ブラック企業にも通ずるヤンキーさ、全うでなさ。正直どのポイントで感動すればいいのかわからない。

でも「日本人は忠臣蔵が好き」という事になっている。
っていうか、
知る限り身の回りに忠臣蔵が好きな人はいないので、40歳以下の若い人で本質的に忠臣蔵を賛美する人はいないのだろう。中高年はいざしらず。
でも
「日本人は忠臣蔵が好きという事になっている」
この「なっている」という点がポイントなのだと思う。

つまり
忠臣蔵の物語には日本人の好む要素が含まれている、と”思われている”
ってことは、リバースエンジニアリング的に、
忠臣蔵から日本人の好む要素を取り出し。なぜこれが日本人好みなのかを検証する過程で
日本人が日本人をなんだとおもっているのか。なんだと思おうとしているのかという日本人の自己規定ループを発見できる。
「日本人は何か」という事の論以上に重要だと思う。なんでかっていうと多様なアメリカ人や多様なロシア人がいるのと同じに日本人は多様な日本人がいるので、「日本人は何か」という本質に迫る論にあんまり意味はないのだ。反証可能性が無限で居酒屋談義の域をでない。
と僕は思っている。

ただ、”自分たちがなんなのか”、と自己言及せしめる構造は間違いなくどこの国にもあって、我が国の場合はどうであろうかと取り出してみる事によって日本人が「どうでありたいか」をうまく文にする事が出来ると思う。

そこから日頃から誰しも感じるなにかこう人間の薄気味の悪さに近づけるかなぁ。とこう立て付けてから以下参ります。

1:忠臣蔵の仕組み
まず忠臣蔵をできるだけ要素還元してみる
●理不尽な行動に出たトップ
●納得感のない裁定
●解体させられる組織
●無理解な政府
●忠義としての仇討という選択肢
●悩むNo2
●悩む部下
●離反する部下
●凛として決断するNo2
●仇討
切腹

さらに忠臣蔵という物語それ自身まつわるメタ的な要素も列挙
・日本でおこった実話である。実話が元になっている。
・江戸時代から庶民に愛されてきた
・平和な時代におこった事件
・古い物語である

一文で表すと、
お上の裁定に「悩みながら」反対し、「忠義」を成し遂げ、散る組織、そして人々、こういう物語が江戸の「昔から」愛された。
こういう事かな

2:忠臣蔵の訴求点
どうして「日本人はこれが好きなのか」
という事だけど、
たしかにドラマ性はあるよね。
組織か個か、という悩みの対立軸がはっきりしていて「難しいよなぁ」と感情移入させられる。

忠臣蔵が流行るわかりやすい解としては、
「日本人は常に組織と個の間で苦しむので、日本人の自己投影しやすい物語である。」
というのはあるけど、多分深層はもうちょい深いので一旦おく。

あと、@chabin53も指摘していたけど体制側の悪い老人を懲らしめたという単純な爽快感が江戸町民にウケた。というのもあったろう。
結束するとつぇぇんだぞ。っていいよね。前半の悩みの描写が陰鬱であればあるほど、ここの反体制カタルシスたるや。

また、もう一つ
・古い物語である
というメタ要素に着目すべきと思ってる。
古いモノはいい。
って優先順位は日本人に限らず世界中で発生する行動原理で「屋根の上のバイオリン弾きアメリカ)」等でも用いられ持て囃される。
ただそれでも 、感覚的だけど
●古いモノにもいいモノはあるんだぞ!
っていう発話の効果が日本の空間では特に強い気がする。もっとストレートに言えば「古さ」で説得される人が多いと感じる。

例えば、
よくわからない慣例などに「昔からこうしているんだから」という理由でそれ以上の反論を諦めたり
逆に、「昔はよかったよなぁ」と新しさに疲れたときにボヤいた事のある人もいると思う。

忠臣蔵は日本人の好む古い物語。こうマークする。

3:日本人はどんな日本人になりたいか、そしてなんでそれはダメなのか
「組織か個か」
「反体制カタルシス
「古い」
忠臣蔵が日本人によく刺さる理由はこの三つに収れんできると思う。
この要素を三つとも、ないし少なくとも二つもった物語は結構列挙できる

踊る大捜査線
仁義なき戦い他、任侠モノ
・幕末
学生運動

ふむふむ

組織か個か、
この命題に悩まされる日本人が多い、って事は
組織に悩まされている日本人が多い、と取るのが一義的だけど
ひっくり返すと「個」も組織と同じくらい日本人の自意識の中に強力に立ち現われていると言える。
だって、個が取るに足らない程度の寄る辺だっだら人はわざわざ悩まない。
犠牲にしても良い位の私生活(自己)だったら会社に行く理由を悩む必要はない。
どっちも大事そうに思えるからそこに悩みが発生する。

実はそもそも日本人は結構個人主義が強かったのに、明治以降武家の精神性が民衆にまざった結果として今の日本人の気質が出来上がったという説がある。
また日本企業の日本企業らしさは、戦後多くの元軍人が民間企業に就職した結果、軍隊式の統制が行われるに至ったという説もある。
どちらもちゃんと検証してないけど、感覚的にはいい線いってると思う。

ここで、
日本人は個人主義者と組織主義者が混ざり合っている。という結論に飛びつきたくなるけど
実際にはもうちょっと根深い問題があると感じる。

ポイントはこの二つが脈々と対立するという点だ。

組織も個もどっちも日本の空間に原理的に根付いているという事は、
この空間の中では、どちらもどちらに対して反論不可能な批判が可能という事だ。
「組織が大事」という発話に対しても
「個人が大事」という発話に対しても
どっちも、「それは原理主義的だ!」と批判が可能という事だ。
つまり
「組織か個か」という議論は日本の居酒屋も含めた発話空間では決着のつかない永久対立構造になっている。将棋における千日手みたいなもんだと思ってください。
証拠は、本題である忠臣蔵それ自身だ。どっちが大事か決着がつけられないからこそドラマになっている。

ここに書いたことは「組織か個か」の対立が永久に解決しない。と言いたいわけではなく。
対立すると”思われている”と言いたいことを強調します。

だからなんだ?という問いについては後で巻き取ります。

さて、反体制カタルシス
いわゆる義賊、ロビンフッドやチェゲバラのように反体制のヒーローは普遍的なテーマで、物語としては熱狂的な感想を期待できる。
また往年の勢いもなくなったとはいえ、「ヤンキーもの」というジャンルもこのカテゴリに入る。

反体制。だから良い。
完璧な体制なんてものは歴史上存在したことがないので、反体制は体制の間違っている分だけ正しくいられる事が出来る。
議論のポジション取りとしては非常に有利だ。

それ故に
先の「組織か個か」に比べて「体制か反体制か」という議論は物語の対立軸としてはイマイチ感がある。
物語として圧倒的に面白いのは反体制だからだ。警察モノのように体制側にいる時は反体制側は悪人であって「反体制」ではない。

反体制が面白いからこそ、これだけ多くの人が、ヤンキーや労組やネトウヨになる。
この素朴な感想こそが、よくわからない日本の政治対立のヒントになっていると思うけど、それはまたの機会に。

しかしこの反体制。扱いが難しい。
なにかというと、反体制で一生いつづける事は出来ない。

局所的な発話としてはすごく面白いのだが、これを連続性のある「生き様」へと昇華すると途端に笑えなくなる。
一つには、反体制を貫いて体制側になると自分が攻撃される側になる、という定番の命題がある。どんな革命政権もこの流れに沿った。
体制側になれなかったとしても、現代において鵺のように変化する体制を一生批判し続ける事はひどく恰好の悪いモノになる。

だから反体制というのは一種の閃きのように、局所解として使うしかない。そういう性質を持った発話態度になる。

もう一つ特質がある。
反体制的な発話は理屈を必要としない。正確に言えばなくても成立する。
反体制の正当性は体制が悪ければ悪いほど強くなるので、内発的な理由が必ずしも求められないのだ。
少なくとも反体制的な発話が起こる局所としては。

わかりやすく言えば
反体制側として語る人はその語りを聞いてもらえる(受け入れてもらえる)確率が高いだから反体制は好かれるし、それが実現した時のカタルシスが凄い。
忠臣蔵の主人公たちがヒーローに見えるのは反体制だからだ。

てことは?
にこたえる前に最後に「忠臣蔵の古さ」
古いモノに現代と同じコトを発見する事によって普遍性を発見できる。
そうですよね。普遍は強さであり、正当だ。
これを逆用すれば、
現代と同じコトのある古いモノを発見する事でコトの普遍性を強化できる
って事だ。

忠臣蔵とそれを取り巻く我々の間で起こっているのはまさにこれだと見る。
なにか現代が強化したいある欲するコトがあって、それが「古い」忠臣蔵の物語の中にあるからこの物語が欲される。とこのような行き方になってるんだと考える。

以上の三つ。
1「組織か個か」という議論は日本の居酒屋も含めた発話空間では決着のつかない永久対立構造になっている。
2反体制側として語る人はその語りを聞いてもらえる(受け入れてもらえる)確率が高い
3なにか現代が強化したいある欲するコトがあって、それが「古い」忠臣蔵の物語の中にあるからこの物語が欲される。

これを巻き取ってみる。

冒頭のとおり
日本人が日本人をなんだとおもっているのか。なんだと思おうとしているのか
のヒントがこの物語に隠されていると感じた。

結論から言えば
★「日本では組織が個と対立するものだ」という教義が普遍的だという事を日本人は再確認しようとしている。
そして
★組織に従う事は反体制になりうるかもしれない、けれどもそれでも、それがカッコイイ事になり得る。
つまり
★「反体制の組織」であったとしても、組織は個と対立するべきである。それ位”組織は強い”。

よって忠臣蔵に行うべき突っ込みは
「組織と個が対立するなんて誰が決めたんだよ」
となる。
つまり、組織と個がどうしようもなく対立する。と忠臣蔵は教えようとしている気がするが、実際はそんなこたぁない。組織と個は両立可能だ。
その実証はあえて行わないけど、自明って事にしてほしい。というかこの稿はそういう立場で批判を行っていると思って欲しい。

一つだけ言わせてもらえば、組織は個と対立するほど強いもんではない。って事だ。

忠臣蔵をみていると「組織ってのは重いなぁ」と思わせるようにできている。ブラック企業のはびこりにはこの勘違いが一役買っていると思う。

別な角度で忠臣蔵批判を行えば
「組織か個か」という問い方それ自体が間違っている。
物語としては面白いけれども、普遍的な教義ではない。

忠臣蔵の主人公たちがこの間違った問いのせいで悩めば悩むほど、
「組織は強い」という「仮の事実」が浮き彫りになる。

これは不健全だと思うのですよ。
だからもう「組織か個か」で議論することそれ自体をよした方がいい。
それはかえって対立軸があるという事で組織を強くする。


これは「組織と個」がどうしようもなく両立しないことがあった江戸時代の話であって、別に普遍的な話でないだからただの歴史的な事実だとしてしまっておけばいい。
けど厄介なことに忠臣蔵は「繰り返されるべき物語」となってしまった。
再生産のループだと言っていい。年末になると忠臣蔵が放送されるのは、
これが日本人が「日本人はこれだ」と考える反復ビート、って事になってしまっている。

原発もいいけど、反忠臣蔵デモでもやりたいもんだ。

良いお年を!

消費されるエコ

最近の車や家電のCMをみてても思ったがやはり「エコ」を売りにした商品が多い。
これって凄いことだな。

何でかって言うと
●より「エコ」であること、が消費の理由として組み込まれ始めた
って事だ。

原初の資本主義においては
商品は要はその性能さえ追求して作れば売れた。
車なら「走れる」
服なら「着れる」
といった具合に。

ところが、
資本主義は進化してもっと消費させる為に、
機能からは離陸した「新しさ」を企業は追及し始めた。
つまりは
「よりデザインがいい」車、服
といった具合に。

本来の「走る」「着る」機能を置いてけぼりにして、消費の理由として
●前のよりも新しい
というニーズを消費者に与えた。

見田宗介によれば最初にこれをやったのはGM

本来は車の製品としての機能だけを追求しても自ずと限界はすぐに来る。
速度も燃費も値段もどっかで限界が来る。
特に「買い替え」を促すような理由を無限に生み出すことは出来ない。
けどデザインだけは別
「新しいデザイン」は無限に発生しうるので
常に前年のデザインを否定し続けていれば無限に「新しさ」を創出できる

こうして「新しさ」だけを追求することで消費は無限に拡大できる。

ただ当然これにも限界はあって
すなわち生産の為の資源の限界と廃棄のコストの限界だ。

それをどう乗り越えるかが20世紀終盤の資本主義の課題だった。

そしてこの課題は克服された
いつの間にか
●「エコである」ので消費しよう
という動機付けを消費者にさせることで。

すなわち地球資源の限界を、消費のシステムに組み込んで解決しようとしているのだ。

今後は
●デザインも性能も全く変わりないが、前の商品よりも「エコ」なので買い換えましょう
という商品がどんどん出てくる。

これって凄いことだよ。

そして、かなりの偽善を感じる。

なんでかって?

真のエコとは、
・一度買ったら50年は乗れる車
・一度着たら一生飽きない服
・孫の代まで使える洗濯機
・200年住める住宅
・永遠に新しいバージョンの出ないOS
・これ以上アップデートの必要がないセキュリティ対策ソフト
・日が沈んだら寝て、日が起きたら起きて、電気は極力使わない。

すなわち
●必要以上消費しなくて済む。のが真のエコ

ふつーに考えればそうだろう。
人間が消費する量を減らせば当然資源の限界にも、廃棄のコストも対処できる。

けど

●いやいや、消費すればするほどエコになるんです。

と言われている。

どうかな。

「買い替え続ける」事を前提としたシステムでは
いつの日か省エネ技術も限界に達するだろう。

という理由により、
コンビニの袋は必ずもらう事にしている。

余談だけど
「200年住める住宅」
ってのはマジで政府で研究されている。最近全く聞かないが、俺は最重要課題と考えてる。
是非やって欲しい

概ね35年後に価値の無くなる持ち家なんて賃貸と何が違うんだ。

日本の同調文化と共犯者

日本のいわゆる「同調文化」はみんなで悪い事をしたいときに便利

いわゆる日本的な空気。日本人が日本で育てば大なり小なり避けて通れない
まあ日本だからしょうがないよね。
ってつぶやいてしまうようなモヤモヤについてちょっと触れてみたい。

じつは、この手垢のついたベタなネタは意図的に普段の思索から外すようにしている。
なんていうか、この「日本の日本的な文化だな」っていう語列が思考にのぼりそうになったときは
「それはもういいから」ってなるべくワキに置く。
理由は単純で、
そのアプローチはもうオッサン向け週刊誌や新橋の飲み屋で毎日再生産され続けていて
そのやり方だと突き抜けない
のがはっきりしている。それだけじゃなく
「日本の同調文化はなぁ、なんかもう日本的すぎるくらいに日本だよなぁ」
などの言い方が実にオナニッシュで救済を提供していて気に食わないからだ。
日本的なモノを指差して批判して、自分は離脱したつもりでいて、なおその中にいる。
つまり、飽きたし、嫌いなのだ。

それに
丸山眞男(僕はあんまり理解できてない)、山本七平積読中。。)がさんざやりつくしたネタだしね。
最近では内田樹の日本辺境論もあった(読みやすかったので助かった。)

とまあつらつら言い訳を書いて取り掛かる。
なんでわざわざ自分の避けてたネタを取り上げるかといえば
日本の文化が「今なにをしているか」じゃなくて

日本のいわゆる「同調文化」はみんなで悪い事をしたいときに便利

というように「普段触れないけど、日本の文化は何用に出来ているか」について言い出すことに意味はあるな。
と衝動的に思ったからです。

共犯しようぜ。

って実は結構難しい。
これは素朴な感想じゃなくて、数学的にある意味証明されている。
ゲーム理論の一丁目一番地、「囚人のジレンマ」の事だ。
二人の共犯者を自白させたい刑事は、それぞれ別室で尋問を行い
「相手が黙ってて、お前だけが自白すれば罰を軽くする。
 逆の場合、お前の罰はもっと重くなる」
と言うと、両方から自白を引き出せる。
本当は両者が黙秘すれば、二人とも得するのに、そうは行かない。
ざっくりと囚人のジレンマを説明するとこうなる。

俺は裏切らない
っていう事を、シグナルとして送り続けていれば、お互い黙秘で切り抜けられる。
という事も数学的な正しさで証明されている。

さて、冒頭の話に戻る。
日本のいわゆる「同調文化」はみんなで悪い事をしたいときに便利
悪いことってのは小さいことから大きいことまでで、例えば
 −花火禁止の公園で花火
 −みんな明日仕事なのに朝の5時まで飲んで騒ぐ
 −禁止されてるはずのギャンブル
 −妻と子どもをほっぽらかして仲間と飲みに行く。
 −サービス残業
 −談合
 −組織的に不祥事を隠蔽する
などなど。

まあ正直言えばビートたけし
"赤信号みんなでわたれば怖くない”
で結論が出てしまっているんだが

命題を分解させていただければ、
・万一の時の責任は分散されるというリスク軽減
・悪いことをしているのは自分だけではないので"大丈夫"という安心感
・悪いことだとはわかっていたけど、その場の雰囲気などに逆らえないので、という理由

こういう正論を日本の人間関係文化は確かに供給している。
これまた月並みなのを承知であえて言うけど、
欧米みたいに正義を個人が直接参照しに行かれる背景では、共犯関係をつくるのはとっても難しい。
つまりゲーム理論が言っている「共犯のシグナル」を日本はかなりの強さで確認できるけど
欧米ではシグナルが別な方向を向いている。例えば神だったり家族だったりする。

ここで、欧米にも共犯はいくらでもいる。って反証に備える。
そうだよね。
代表的な共犯関係
ギャング、マフィア、ヤクザ
古今、洋の東西を問わず、アウトロー集団は常に時代とともにある。
けど考えてみて欲しい、
実は、
・個人より集団が大事
・目上の者が大事
・礼を重んじる。または戒律がある。
・面子を尊重する
これはさ。ほとんど全てのギャング組織に共通する文化で
そしてほとんどそのままアジア―日本の文化にも当てはめられる。

つまり
ギャングがアジア的なんじゃなくて
アジアがギャング的なのかもしれないじゃない。
ま、それは別な機会に掘り下げてみるとして。

それからエンロンのような大規模な組織的犯罪と隠蔽ってのもあるよね。
(ちなみにこの事件はもっと論ざれるべきなのに、足りない)
でもこの場合、すっごく大きな金銭が共犯者全員を結び付けてた。

日本みたいに、
明らかに隠蔽したって何ももらえないような
いち平社員まで隠蔽に関与してたような事件が池のあちら側であったって例はちょっと知らない。

で、話を戻す。
悪事に沢山の人を巻き込みたい時は
欧米よりは日本でやるととってもやりやすい。
なぜならば、正義であるよりも共犯の「関係性」を大事にしてもらえるからだ。

最後に踏み込む前に
僕はこの文化を良いとも悪いともここでは決めないという事を書いとく。
なぜならば、
そもそも法律ってが高度に昇華した共犯関係なフシがあって。
例えば法の下の死刑も国民を共犯とした犯罪かもしれないからだ。
こんな感じで、
日本の同調文化もひとつの人間関係のモードにすぎなくて
モードのバーを一つあげれば、たやすく法治へと到達できるのが見えているので
単純にどっちが良い悪いって言い切れない。

ここで結論を引き寄せてみる。

こういう共犯関係を成立させやすい文化ってのは、
ズルい人に利用されてしまう危険性があって、
利用されたくない人はそれに気をつけるべきだ。

「悪いことだと言い出す雰囲気じゃないので黙っていた」
それもそれで一つの十分な理由だと僕は尊重する。現場ではそういうことは多々ある。
つまり、無理はいわない。共犯関係を抜け出すのは簡単じゃない。
けど、それによって自分や自分の家族を損なってしまう危険性がある場合には
逆に利用すべきだ。

僕もそうする。

エヴァQ 感想と考察

エヴァQみてきた。
本当は公開初日に行きたいくらいだったのだが、仕事や家事や育児が忙しくて映画館に行けたのはようやく公開一か月たってから、というこの諸事に追われる歳になってしまった自分の体たらくそれ自体が旧劇場からの時間の流れを感じさせる。


それでまあ内容はかねてからの評判通り、難解で情報過剰で、それでいて行き場のない可哀そうさに追い掛け回される、あえて分類すれば「眩暈」の楽しさのある作品だった。「破」の一本気さに痺れながらも物足りなさを感じてた人は「これだよこれ」といいたくなるだろう。

エヴァンゲリオンの不親切さ、はそれ自体が一種の様式美として完成されてる感もあるし、作品全体が議論を呼ぶように設計されているようだ。
そんなわけで用語や設定についての考察はもう出尽くしの感があるくらいネットにあふれているし、
そのあたりを掘り進むには暇もあんまりないんで、
そもそもなにをやろうとしている映画なのかについて感想も交えて書いてみる。


エヴァQはなにをやろうとしているか、
といえば、僕は物語があってそのための演出がある、という通常の映画の作法と逆に
「やりたい演出があって、そのために物語が逆算的に用意された」
映画なんじゃないかな、とまず感想した。

例えば空中戦艦。
空中戦艦をやりたい、という願望がまずあって、空を飛ばすにはエヴァ的な魔法が必要で、それを使えるのはネルフだけのはずだけどネルフは空中戦艦なんてもってないし持ってたらもっと早く出しとけよ、となる。だから敵対組織に。
っていうふうにストーリーが組み立てられたと予想する。

これと同じことが作品全体の構造においてもいえると思う。
なんでシンジは手のひらをまるっと返されるようなひどい扱いを全編をとおして受けてるのか。
これは、「意味不明で理不尽なひどい扱い」が「なぜそうなのか」と深堀をすべき考察の対象でもあるんだろうけど、
僕は「理不尽であること」それ自体が意味をもってるんだろうなと感じた。
なんでかっていうと、序盤のシンジに対する扱いが理不尽であればあるほど、中盤からのカヲルとの交流に「ここにしかいる事ができない」依存性が生まれるからだ。

ちなみに、せっかく助けたレイが冷たいのも同じ
せっかくカヲルがいるのに、レイとの関係性に逃げ込まれちゃったら、カヲルとの関係性が稀薄化しちゃうしね。

こんなふうに物語の全ての要素が「シンジがカヲルへ依存する為の必然性の創出」へと向かっていると仮定すると
エヴァ全体の「辻褄のあわなさ」がかえって辻褄が合う。

なんでこんなことをするのか?

よく考えてみると、
少年の成長を描いた物語を描くときに、なにかに逃避的に依存して、そしてそれが為に災難にあうという構図が無いと、実際の少年が通るであろう成長のみちをリアリティを持って描くことはできない。
トレインスポッティングでは薬物依存への逃避だったけど、特定の人物に依存するという構図は実はトレスポよりもリアリティがあるのではないかと思う。

実際、依存の対象としてカヲルは凄く適任だろう。
優しいし、魅力があるし、言ってることが意味深で導師的だしで、14歳くらいの女の子に社会人の彼氏がいたらこういう風に見えるんだろうな、そして溺れるくらい好きになってしまうんだろうな。

村上春樹の小説がブームになる様にも似た構造があるように見える。
優しくて、それでいて意味深で、なにか成長した気にさせられる、そういう魅力をもった対象が渇望されていて、そんでもって消費されてしまう。

エヴァQはこ−いった少年が陥りやすい依存と消費の構図を再現したかったんじゃないかな。

さて
作品はカヲルへの依存を胸やけするくらい描いてから、シンジの子供っぽい勇み足でまたしても災厄を招いてしまう。
それでも、その場に居合わせた人たちの動物的ともいえる善意で、シンジは救われる。そして放浪が始まる。

Qがやりたかった事が「依存とそれがための破たん」だとすると、この終わり方、すなわち接はなにへの伏線なんだろう。
エヴァがシンジの成長譚(それもリアリティのある)だとすると、次もいろいろ災難や理不尽を通っていき、最後は「それでもここにいていいんだ」で終わる、と
こーいう予想が成り立つけど、それでもちょっともう一段踏み込んでみたい。

エヴァQは眠っていたエヴァファンの考察欲をうまく喚起したように見える。
その受容のされ方は製作側もよく見ていると思う。
じゃあそれに対して親切に回答を次で送り出してくれるのか、って言うと、
Qで上のような構図を優先させた結果、色々と辻褄の合わないことをやっているので、それへの回答をあと1〜2回でやろうとするとひどく説明台詞が多いエンタメとしてぎりぎりの作品になってしまう気もする。

だから作品としては次も破たんするのかっていうとそうもならない、とやや信者的に願う。
いちおう根拠はある。

多分、制作側ができる最大のファンサービスは「エヴァを終わらせない」事だと僕は考える。
ある意味、今考察に熱をあげている諸兄をみるに、じつは考察に「答えが出そうで答えが出ない」状態こそが望まれているとも思う。

だから答えは
●未完のまま終わらせる
という事だと思う。

「これで最後」とも「次がある」とも言わないまま、結論を繰り越し、
10年後くらいにまた新シリーズを始める。

その時の僕は育児も終わり、多分いまとはまた違う落ち着き払った心境(または体たらく)で映画館を足を運べるんだろう。
ちょうど自分が成長する少年の時に始まった「エヴァ」という作品を
自分が親である時に「ヱヴァ」として観て、
そして自分の子がエヴァが始まった時の自分の年齢と同じ年齢になった頃
そのとき自分が求める成長譚は、いまのヱヴァともまた異なった物語なんだろうな。と。

その様こそが、まさに「終わらない成長」という実態をうまく巨大な物語として捉えられている。
そのようにも思うのです。

高校野球は教育に悪い

高校野球は教育に悪い


今の高校野球、というか、
高校野球を取り巻くありよう」はあまりヘルシーではないんじゃないか。
高校野球が若者に提供するヒーロー像に不健全な効果はないのか、考えてみる。高校球児を礼讃するのは、運動神経の悪い人たちに可哀そうだろう。というレベルの話じゃなくて、誰のための高校スポーツで、普通の高校生のそれに対する態度は何であるべきか、そこを追っかけてみる。


ゴルフを除いて、30代後半〜40代が現役で大活躍できるスポーツはあまりない。
若者に人気のある野球・サッカーは活躍のピークが20代に来る。
大成するかしないかはほとんどの場合人生のかなり前半で決まってしまうわけだ。
にもかかわらず、
「野球選手になりたい」という夢を持つ10代の少年はいっぱいいて、またそう思う事が肯定され、むしろ奨励されている。
そのためにたくさんの物語と作品が提供され続けている。

その奨励は、善くはあるけど、良いんだろうか。

冷めた言い方をすれば、スポーツ選手というは例外的な人間で、その生き方にたどり着ける人間は少ない(プロ野球選手は日本で1000人もいない)。そしてリスキーですらある。だからこそ、ヒロイックな魅力がスポーツ選手にはあるんだろう。けど万人には向かない。
僕の問題意識は、そういう生き方の「偉さ」、またはその生き方が他の生き方に比べて序列的にどのように据え付けられてしまっているか、そういう外構造に向かう。

スポーツを通じて人間的な成長がある事は間違いないけど、別に高校野球を以外でも人間的な成長は得られるし、高校球児と比べて、それ以外の人たちが人間的に劣っていることがあるとも思えない。むしろ部室内のイジメで成長を妨げられた人だっているであろう事は想像できる。(その数がわかんないので「いるであろう」と言う事しかできないけど)
けどそれでもやはり、「球児」という在り様には、なにか別格な物語性が与えられている。

例えば自分の中学生の子供が「将来はゴレンジャーになりたい」と言い出したらどんな理解のある親だって全力で止めるが、くどいようだけど、日本で1000人もいない(0.0008%)「プロ野球選手に」なりたいと言い出したら止めはしないんだろう。 

どうだろうか。

ゴレンジャーと同じくらいの凄さのヒーローを描く作品。ドカベン巨人の星などなど、若者が野球を通じて成長し、それを一生の職とする、そんな物語はもう何十年も好まれ愛され、そして信じられてきている。っていうか、若者が規範とすべきロールモデルとして使われている。

ジャンプで連載されててドラマも人気だった「ルーキーズ」は不良が野球を通じて更生する話。下敷きである「スクールウォーズ」から数十年のギャップを経ても同じ主旋律をつかった物語が成立し、愛される、まさにその一連の様に、「高校球児神話」がいかに「要請」されているかが現れている。

教育の目標は「10代のヒーロー」を生み出すことではないだろう。それは確かだ。にもかかわらず子供からも大人からも「10代のヒーロー」は求められている、積極的に生産すらされている。理由の一つには、子供の世界は大人以上に序列的で、「誰が誰よりクールか、キュートか」気にされまくっているので、ヒロイックな立ち振る舞いが個人個人の願望に深く刺さる、という点もあるだろうし、教育を施す側から見れば、努力や克己という教育的キーワードがクロスオーバーするってのももちろんだ。

つまり、子供も大人も利害が一致している。だから、リアルな10代のスポーツヒーローにはいわゆる「これぞ完成された高校生」という名誉が許可されている。

僕はでも、
直観的にはこのように結果として成り立ってしまった共犯関係にキモさを見出してしまう。

以前に書いた「夢=職業ではあってはいけない」の話にもつながるけど、高校生のうちに進路を決める必要性は全くない。
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/20120617/1339916575

高校生が「とりあえず”今”興味のある大学行って、そこからテキトーに考える」のの何が悪いんだろうか。 「進路で悩んでいる」(何者になるべきか)悩んでいる高校生が多い気がするが、18歳は何か一生の事を決めるには早すぎやしないか。自分が「商社マンに向いている」のがわかったのが”商社マンになって6年”の28〜29歳頃の事の僕としては、いわゆる「進路」は何年もかけて手さぐりで探すものっていう実感があるが、なんで10代の人は今決めなきゃいけないような気がしてるんだろ。

高校球児は、あれは、別だ。これ、このように言いたい。
普通の高校生があんなにしっかりしているのは絶対に身体に悪い。
高校球児のような「直線的な努力」の若者に対する奨励は「悩み」や「彷徨い」の入り込む隙間を排除してしまうぞね。
『イジメ』と全く同じ恰好で、”『悩み』がある事は望ましい事ではない、だからゼロにしなくてはいけない”という信仰が大人にも若者にもある気がするが、そいつはおかしいだろう。イジメと同じように、悩みはあってしまうものだと考えて、それとの付き合い方について「悩む」方が僕は好きだ。

先述のとおり、スポーツ選手は20代のうちに人生のクライマックスが詰まっている職業なので、そうなりたい若者は高校生の時点で強い意志と能力の実証が必要になる。だから甲子園に出場するような球児が「完成されている」のはある意味当たり前で、それとおんなじ程度の「しっかりさ」をプロ野球選手以外の道に進む高校生に求めるのはヘルシーじゃあねぇだろう。

けど上記の共犯関係(球児を模範として努力せよ)が高校野球神話の「身体に悪さ」の前景化を許さない。
こういう格好になってしまっていると思うのです。

もう一歩踏み込んで、話を発散させる。
この一連の「高校球児神話」→「未完成な若者に対する追い立て」は単なる身体の悪さにとどまらない、もっと深刻な問題を引き起こしていると思う。それは僕が「夢の駆け込み乗車」と呼んでいる現象だ。

プロ野球選手ではないにしても、若者の心をとらえる仕事はたくさんある。例えば、音楽家、芸能人、作家、社長(笑)、などなどこういった「夢」にとにかく急いでたどり着き”直線的な努力”を行わなければ。こういう焦りと、そして、実際に駆け込むことによって「夢が無い」状況よりももっと酷い立場に追い込まれてしまう現象、これを「夢の駆け込み乗車」と呼んでる、やむしろ揶揄している。
少し前に、五反田で「社長求む!」という看板を見た、ギラギラしたフォントと色使い、高そうなスーツを着て高級外車に載っている若い男の写真、で具体的な仕事内容は書かれていない。 多少のマチュアさをもった人がみればどう考えても怪しいが、なにかこう「俺は早く社長にならねば」と焦らされている人は飛びついてしまうだろうとも想像できる、っていうか実際にいるからああいう看板を出しているのだ。

「社長募集」に飛びついて、実際には経営者とは名ばかりで、ブラック企業でこき使われたりするだけならまだましで最悪債務を背負わされたり犯罪に巻き込まれたりすることだってある。実はそういう人を知っている。

この稿は、
そういう「夢の駆け込み乗車」からおこる不幸に対し「高校野球」は責任がある。という事を言おうとしている。

そうはゆったって、高校野球は面白いし、ヒーローを求めたり、規範を示そうという行為を否定する事はできねえだろう。
そもそも、おれはもう高校生ですらないので、そんな問題意識が今ここで必要なのかって事はある。
それはわかっているので、悩んでいる、けど先述のとおり、悩みはいいもんだ。だから悩み始める事から始めるぞね。

とりあえずここまで。

エイトレンジャー感想


少し前に妻に付き合って関ジャニをフィーチャーした映画『エイトレンジャー』を一緒に見た。
関ジャニはろくにメンバーの名前も知らないけども堤幸彦監督という一点のみを手掛かりに同行した。

あまり大きな期待もせずに行ったものの、見終わった後色々思うところがある事に気付いたので、需要はないと思うけど供給もあまりないと思うのでエイトレンジャーについてのうっとおしい批評を書いてみる。

今の日本で、コメディタッチのディストピアを描く為には関ジャニを配役するしかなくて、関ジャニを主食として映画を撮ったら、コメディタッチのディストピアにしかならない。そういう良く完結された機能美がみつかった。


映画のストーリーについては以下紹介サイトからそのまま引用する。

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2035年。度重なる天変地異と経済危機、治安悪化により、日本は荒廃していた。国から見捨てられた地方都市ではテロリストが勢力を持ち、略奪や誘拐が日常茶飯事的に行われており、多くの人々は希望を失っていた。そんな地方都市のひとつ・八萬市(エイトシティー)では、治安維持のために自警団・ヒーロー協会が設立される。闇金に手を出し借金取りから逃げ回っていたニートの横峯誠(横山裕)は、ヒーロー協会にスカウトされる。他に揃っているのはアルコール依存症の渋沢薫(レッド/渋谷すばる)、チェリーボーイの村岡雄貴(ナス/村上信五)、ショッピングサイトにどっぷり浸かっている丸之内正悟(オレンジ/丸山隆平)、青いものを見ると買わずにはいられない安原俊(ブルー/安田章大)、プライドばかり高い元バンドマンの錦野徹朗(イエロー/錦戸亮)、純粋で優しすぎる大川良介(グリーン/大川忠義)というやる気のないダメ人間の掃き溜めだった。横峯はそんなエイトレンジャーのリーダーを任されてしまう。

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つまり、ダメな人たちがダメな街を救うために、何かのきっかけで克己して戦う。
という定番と言えば定番のストーリー。これが堤監督独特のコメディタッチで演出される。

面白いのは”アイドルがこれをやっている”という点だ。
僕もそんなにアイドルに詳しくはないけど、そんな自分からみても関ジャニには他のアイドルグループと比べてある種の「ダメさ」があるようにみられる。
直感だけど、これが例えば光GENJIやNEWSだったら企画として成立しない恐れがある。彼らだからこそ上記のシナプシスを使えたんだと思う。

宝塚なんてみてて思うが、アイドルは元来非日常の世界から来るもので、本来崇拝すべきものに「未熟な部分がある」というのはアイドルとして「それでいいのか」と言いたくもなる。他方、90年代ごろからこーいう「等身大の」アイドルが増えてきたようにも感じる。

嚆矢はSMAPであったかもしれない。
よく言及されるが「喋れるアイドル」「コントをするアイドル」ってのはSMAP以前には相当奇異で、SMAPがその分野を切り開くまでは「アイドルはそういうものではなかった」らしい
歌番組などが終了し、歌だけでアイドルが食える時代ではなかった、という事情もあったらしい。
http://www.news-postseven.com/archives/20120826_138991.html

そういう経緯もあって、いまとなれば、芸人と同じようにトークをこなせるアイドルも珍しくないが、
その中にあっても関ジャニの位置取りは頭一つぬけていると思う。

そう思う理由は、彼らのグループ名にも埋め込まれている「関西」というキーワードだ。
僕はもともと関西に発祥した古い会社に勤めている事もあって、身の回りには関西(大阪、兵庫、奈良、京都)出身の人が多い。
その僕の観察では「関西の男」はある種の「イタさ」から逃れる事が出来ない。

よく言われるように、「おもろさ」の価値観が関西人と関東人とでは確かに違う。(それはもう自明としてここでの議論はよす)
で、その「おもろさ」の源泉を「イタさ」≒「ダメさ」に求める関西人は結構多い。
会話の中でのポジションが「S」であれ「M」であれ、なにがしかの「イタさ」をどこかしら乃至だれかしら(自分含む)に発見し、それを晒しあげてみて笑いへと転化。こーいうループを身体感覚として日頃からこなす関西人は本当に多い。

SMAPが切り開いた「おもろいアイドル」の原野に自分たちの「ダメ的な」出自との親和性を見出して入植したのが関ジャニ、とすることもできる。

さて、エイトレンジャー、
下敷きとしている世界観は、一言で言えば、若者にとっての悪夢だ。
メンバーは仕事が無く、女性にも縁が無く、おまけに能力が無くてそれがために国から見放されている。
その様の全体がメンバー個人個人の身体的なありようである「ダメさ」へと濃縮還元されていて、

「ダメ」なのは個人なのか、国が「ダメ」だから個人もダメなのか、
その辺の因果関係はあまり問題にされないように背景に押し戻されているが、時折引き出しから取り出されるように「国」についての恨みが引用されてまた仕舞われる。
その結果出来上がるのは「とりあえずなんかうまくいかない」というコメディタッチの場面と場面。
それらを関西人である関ジャニ達が演じるので、前述のようなイタさの悲壮が即笑いへと昇華するような仕組み作りが出来ている。

こーいう映画作りは巧妙ではあるけど、悲しくもあるなあ、と素朴に思う。
だってそうじゃん
やりようによっては、この物語のあらすじには階級闘争を点火する予兆があって、もっと犠牲や悲劇や矛盾がいったりきたりするワイルドな映画にも転がりかねない。
そういうベクトルを関ジャニのアイドル性がうまく制していて、そんな飛躍はゆるされない企画にしてある。
寂しい言い方をすれば、暗くなりすぎる事も明るくなりすぎる事も許されない、そもそも引き裂かれた映画。という位置づけの作品。
引き裂かれたといえば、前述のように関ジャニそれ自身が、アイドルとして輝く一方で関西人としてイタい、という作品でもある。

これをまとめて言えば、
前述したような、関ジャニが出自するアイドル性とダメ性の二面性が、この映画の喜劇性の悲劇性と相似している、とこうなるのかな。

そんでまあ、
映画の中で何回かの山場と谷場があって、最後はメンバーみんなが克己するわけで、ヒーロー物だから克己するとマイティパワーが宿って、それによって一気に事件は解決されると。
正直、どういう経緯でメンバーが克己したかは覚えていないけど、少なくとも愛とか友情とかそーいう言葉は使っていなかったと思う。覚醒をあっさり描いたのには多分理由があって、克己する過程は重要ではなくて、したことそれ自身のパフォーマンスが重要。とこういう事なんだろう。
これはアイドルだから許されるんじゃないかな、理由がパフォーマンスから遅れてやってくる、そういう芸当を並みの一般人が披露する事はあまり恰好のいいものじゃない。

踏み込んだことを言えば、この映画がターゲットである若い女の子に提供する救いはまさにこのアイドル性にある。

どうも右肩下がりっぽい時代にあって、イタさを笑い続けるってのは楽なことではない。
なんとなれば「本気で餓死しかねない」笑えない身体的なピンチだってすぐそこに迫っている人もいるだろう。
関西人の持つ天性の相対能力も、これだけ下降線が続くと、どっかで行き詰まりを迎えかねない、そういう予感がある。
この1〜2年、関西出身のお笑い芸人の「笑えない」スキャンダルが続いたのも偶然ではないかもしれない。

だから陽性を保ち続けるのはどうも無理みたいだな。そういう気がしはじめる若い世代に対して、
「いや救いはあって、僕らはそれが出来る」という事を理屈抜きで実演してみせる集団というのは貴重だ。
それがフィクションかどうかはあんまり問題じゃない。
思えば、映画の中でも克己が起こるのは、「笑いが出尽くした」暗くなるかならないかの時間切れギリギリの場面だった。

続編があるかないかはともかく、アイドルは必然的に求められる。という事を確認した映画でした。

エイトレンジャー見たい見たいとうるさい彼女がいる彼氏は、面倒くさがらずに付き合ってあげるといいと思う。