体罰/パワハラに対する各個撃破、という方針案


12月下旬、大阪の桜宮高校で生徒が自殺し、この生徒が前日に体罰を含む厳しい叱責を受けていたことが明らかになった。
http://www.j-cast.com/2013/01/10160922.html


この事件を巡って、顧問を擁護する動きもあるなどしたことが騒動を一層大きくして
今週のネット界隈はこの話題が断続的に提起されるお祭り状態だった。
戸塚ヨットスクール校長 「自殺した生徒が悪い。他の体罰を受けた生徒は自殺してないだろ」 http://alfalfalfa.com/archives/6204653.html

この顧問が、「いい人であった」という見解が聞かれる。僕はそれについては「まあそうなんだろう」と思う。
誰からも嫌われる人ってのはそうそういない。
家に帰ればよき父であったり隣人であったり、誰かは必ず誰かの大切な誰かだ。
このニュースは「教師の中に異常者が紛れ込んでいた」という事では決してなく、
”「いい人」が誰かを死に至らしめてしまう事が「ありえてしまう」”という点で問題のある構造を明らかにしていると考える。
もう少し言えば
「こーいう」構造があることそれ自体はもう目新しさはなくて「またか」と多くの人は第一印象をもっただろう。
だから問題のある構造が問題だ、という事はもう誰もがわかっていて、
にもかかわらず、
この仕組みが温存され続けている。

だから
仕組みを回し続けている仕組み、の方をこの稿では標的にすべきだと考えた。
結論から言えば
体罰パワハラ反対」という批判それ自体が「わかってない奴らが批判している」という物語の発生を許している。

迫害されればされるほど「あいつらはわかってないから批判している、よって批判されている俺らはわかっている」と防御的に結束が固まるタイプの団体がある。 例えば、ヤンキー、体罰容認、パワハラ容認、男尊女卑思想、カルト教団などがそれだ。
こーやって並べると共通項がある、序列制/階級制が強いという点だ。

階級制っていうのは実は維持が難しい。なんせ階級もまたフィクションだし。
階級の正当性の物語がどこかで担保され続けていないと容易に下剋上や崩壊がおこる。
そこへ
「わかってない奴らの批判」ほど助かるものはない。なんせこーいった団体は「勝つ」事が目的である場合が多く、批判する人たちっていうのは「勝ってない」ケースが殆どだから、「負け犬たちが批判している、だから彼らは負け犬なのだ」とこのような論理がなりたつ。
いまネット界隈で話されている事件に対する空爆のような批判はかえって逆効果ですらある。

今現在、この手のマッチョ思想を実践している人で、桜宮の事件を受けて明日から体罰パワハラをやめるような人はいないだろう。 過激かもしれないけど、「まれに自殺者が出る」という事は織り込み済みになってる節がある。「稀」と認識されいる事の一個を見て「稀ではなくて良く起こるのか!」とは気付かない。「稀なケースが出た」としか思われないんじゃないかな。

よって、
この手の思想を駆逐するために「僕らの論理」はあまり効果が無い。っていうか減らない。
踏み込んで言えば、体罰パワハラと戦うためには、正しいか正しくないかという切り口を捨てる必要がある。
捉え方としては、病気みたいなもんだと思った方がいい。
病原菌に対して「そうやって宿主を攻撃しても結果的には君も死ぬよ」と正しさを説いても勝てない。実際この手の思想って感染するし。

では病原菌にたいして、どうすればいいのか。
地道な「各個撃破」という事になる。わかりやすく言えば「摘出」ですね。

桜宮高校の例の顧問が「いい人」だったかどうか、ってのはあんまり意味がない。どんないい人だって車で人身事故をおこしたら免許を取り上げられるように、「各個撃破」という戦い方が一番効果をあげられるんでないかな。

もう少し具体的に言えば
「どーいうタイプの人間」が「体罰パワハラを用いて誰かに害をなすか」という傾向はすでにわかっていると考えられる、
パワハラ/体罰から自殺に至らしめる事例が一個あったら、それ以前のヒヤリ/ハット ケースの列挙は可能だ。
そういうケースを頻発させている人間を個別に摘出していく必要がある。

どうやって、
それはもう本当にそれぞれの人が個々の現場で戦うしかない。
なんか無責任なようだけど、遠回りの方が目的地にたどり着く、という事はあるよね。

このとき、
マッチョ思想と戦うコツは、
階級闘争」だとは思わない事、「階級闘争」を戦うという事は「階級の物語」を肯定する事になる。
単なる「治療」ないし「手術」、その方が気も楽だし、その手の人を失脚させるときに良心も傷まないよ

では、はりきってまいりましょう