美徳と階級意識

美徳、ってそれほどいいもんでもないよ。特に労働に関する美徳。
美徳は階級を生み出すよ。階級なき美徳はありえないよ。
少なくとも労働に美徳を結びつけて語るのはもうやめた方がいいよ。

というような話をします。

●美徳はおかしな使われ方をしている「働いてるパパはカッコいい」という文は裏返すと「働いてないパパはカッコ悪い」という差別的な雛型からできあがっている。

原理にかえれば、労働は取引なので、本来自分の労働力を売るも売らぬも自分の自由だ。にも関わらず「労働力を売らぬとはなんたることか」という説教が成り立つ。蔵書の多い人が来客に「え?この本売ってくれないの?!」と責められてるようなもんだ。

じゃあ
働かないことがなぜ悪いって事になっているのか。
それは労働と美徳が結びついて語られてしまっているからだと私は思うのです。

・働かざる者、飯食うべからず
・働いている人間の汗は美しい
・職について一人前の男
・働くことを通して人間的な成長がある

これは全部いい感じの文です。まず反論されない。この文への反論をしたいなら命がけだ。
世の中で反論されない文という事は、自分自身がこれを自分自身につかっても自分自身に反論されないという事だ。
すなわち自らのケツを叩くムチとなる。言い換えれば内なる労働監督官だ。
こいつはツライよ。自分ですら自分を甘えさせてくれない。

なんていうかさ、
極論すれば働かず飢えて死ぬのも自由です。けど大抵そういう人は死ぬよりも辛い目にあう。 働かぬ事を世間に責められ、親に責められ、そして自分自身に責められる。男が無職で外を歩くのは、女子がスッピンで出歩くのに似ていると思う。

人を人として生きにくくしてしまうようなこんな美徳は本当にイイモノなんだろうか。

イイモノではない。

僕の見方では、美徳だと思われているものは、人の階級を決定するシステムのある面だ。
出自が人の階級を決定する事があったように、一般的な美徳に沿っているかそうでないかがその人の階級を決定する仕組みがある。以下、論証を試みます。

●美徳と階級がくっついている
美徳は階級に結びつく。
美徳を実践する人は好むと好まざるに関わらず一定の評価を得る。
職業倫理であれ、宗教的修練であれ、ヤンキー的美学であれ、美徳がある、と言うことは、そこには階級もあるようにみえる、残念ながら。

くどいかもしれないけど、以下考察をしてみる。
「良しとされるモノ」が美徳によって示される時、同時に「良しとはされないモノ」も暗黙に立ち現われる。
模範とはそういうものだろう。「緑信号で渡るべき」と教える時、「赤信号で渡ってはいけない」という教えも同時に出現する。
てことは
規範に近いか遠いかがその人の「良し悪し」を決定するモノサシとなる。
信号についての教えが「良い子はこうする、悪い子はこうする」と定めるように。

さらに、
一般的に、美徳は達成がそう簡単ではない事だったりする。
「必死で働く」「神に近づく」「ツッパる」のようにちょっとやそっとでは達成できない目標を設定される。
すなわち
なんらかの美徳を実践できている人はそうでない他人よりもコストを支払った、と言える。
だから
コストを支払わなかった人を差別する事が出来る。
そうでなかったら美徳にコストを支払う意味が無くなる。
・どれだけ働いても同じ給料、働かなくても同じ給料
・どれだけ善行を積んでも、無神論者と同じ地獄にしか行かない
・親や先生に過激に反抗しても、族仲間から尊敬されない
・信号を守っても守らなくても車に跳ねられない。
これでは美徳の機能が達成できない。
美徳を実践できた人は評価されるべきなのだ。
ならば、美徳を実践できない人は評価を得てはいけない。

「階級を定めない」という美徳だってあるだろう。
という反論があると思う。
そういう人たちは今なお残る「階級が露骨な国」についてどう思うのだろう。
「そんな国は亡びるべき」と言うなら、それはその国を劣ったものとしてみている事だ。
「そんな国はほっといていい」と言うなら、その美徳が普遍ではないとわかっているという事だ。すなわち美徳とは信じていない。

さて
美徳や規範の厄介な所は主体化するという事だ。
信号ルールが僕らの身体に根を下ろしているように、世の中、そして労働についての美徳も僕らの心の内に在ってしまっている。
って事は美徳がもたらす階級意識もまた僕らの心に住み着いている。

働かぬ人に対してあなたが向けるかもしれない厳しい目は自分に対しても向けられている。
働かぬ自分を差別する自分。
そのような監視官いや査定官があなたの内に住んでいる。

これはゾンビモノにも匹敵するホラーだと僕は思うのです。

この辺から現代の身分制について以前書いた稿につながっていきます。ご参考。
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/touch/20130103/1357205359


●美徳と階級は共犯関係

階級と美徳のどっちが先にやって来るかを判断するのは難しいか、または意味がない。 西洋貴族のノブリスオブリージュなんかは、階級のあとに美徳がやって来たように見えるが、ノブリスオブリージュが彼らの階級を正当化していると見ることも出来る。

一言でくくるならば、美徳と階級は共犯関係。
さらに言えば
だれかがこのようにデザインしたという訳ではなく、そのように「自己組織化」してしまったと思った方がいい。

また、「何が美徳となるか」についても、いささか不自然な自己組織化をしているように見える。

先の女子が「スッピンで出歩くのが恥ずかしい」の例で言えば、
化粧は手段のはずなのにそれが目的になっている。
職に就くこともカネのための手段の筈なのに、「職に就くことが」優位に立つための目的になっている。
不自然な事に。

仮説だけど、
化粧と労働の本来の目的である美とカネはあまりに露骨で階級の決定変数としてはグロテスクだ。くだけていえば万人ウケしない。
だからその手前にあって比較的実践しやすい「化粧」「労働感=やりがい」に美徳を結びつける事によって汎用性の高い階級決定システムが出来上がる。んじゃないかな。
複雑ではあるけど「カネは汚い」という美徳もまた現代にはあるのだ。だから「カネには言及しないが労働はイイ」という美徳が求められている。先の階級決定システムにより。
(この仕組みについての考察は長くなるので別稿にまとめます)

このように、
階級決定システムですら「ユーザーフレンドリー」になっているのだ。
現代はすげぇよ。

でこの「使いやすい階級システム」が労働美徳と結びついている結果なにがおきているのか。
美徳の為の労働、という狂気の沙汰だ。
「充足感と社会的信用を与えるから、俺の為に働いてくれ、薄給で」こんな狂ったトレードが成り立ってしまう。

僕が商人だからそう思うのかもしれないけど、労働はまずもってカネの為だ。とことんトレードなのだ。
そこから得られる充足感や自己肯定感は副次的なものにすぎなくて、それが目的化してしまってはそれのために自分の身体を払わされる羽目になる。
ではどうすればいいのか、

僭越ながら僕は「カネに帰ればいいのではないか」と言いたい。
僕らは資本主義の国に生きているのだ。
まずカネを、というか生きるに足る十分な屋根と食事と時間を、常識的なコストで手に入れられる事を最優先すべきだと思う。
自己実現や充足感はカネを得てからでよい。っていうかこの辺はカネを払って買った方がマシ。
カネをケチって、自らの身体を差し出すからロクな事にならない。

そしてなにより
一人一人が「勤労の美徳」を捨て、「自らの幸福」を最優先に生きられる自由な資本主義社会を望む。のです。
カネは汚いものではないよ。
カネを汚いとするような美徳が間違っているんだよ。