ヨイトマケの唄:現代の職業と身分:無職を差別する無職


あけましておめでとうございます

晦日の紅白よかった。
とくに美輪明宏ヨイトマケの唄」派手な演出や技巧が無くとも何かを伝えようとする人間の思いだけでこんなに深く刺さるものだとじんわりした次第。

聞けば、この歌は「ヨイトマケ」「土方」などの差別用語がある事からテレビで歌う事が難しかったそうな。
そこでおもったんだが、
「なんで職業がその人の身分を表すようになってんだ」
という素朴な感想だ。

フラットに考えれば、職業は「自分がなりたくてなる」もので、身分は「なりたくないのにそうである」ものなので「職業=身分」って考え方はおかしい。

にもかかわらず、現代の、少なくとも僕の知る日本では
「職業=身分」
という世界観があるように僕には見える。
なんでそう見えるのか、なんでそれは見えづらいか、そしてそれはどういう風におぞましいのか。それを分解する。


①「職業=身分」という世界観があるかないか
現代に身分性はある。
現代に身分制がねえなら、どうして女性誌の「男の職業別落とし方」特集に出てくる「職業」は、マスコミ金融IT外資系コンサルばかりで、「飲食」「土方」「介護職」の男を如何に落とすか、みたいな視点の特集はねえんだ。
男だってわりと露骨に「CAはこう落とせ」みたいな指南がある。
こと男女の関係においては、割と動物的な情動が支配的なのでパートナーの身分で自分の身分が決まる風にもなる。

また
そもそも人類の歴史の大半は「身分によって結婚相手が限定されていた」時代なので、自由な選択が基本である現代にあって選択した相手の「職業(身分)」で自分の身分が決まる、と思う人が増えるのは無理からぬと思うですね。

数年前に「格差社会」があるかないか、という議論があったけど、「経済的な」格差は別として「文化的な」身分というのはある。

別な角度でこの世界観を意識するのは「無職」の存在だ。もっと言えば「無職差別」の存在だ。

職業=身分の世界観を仮定すると、
無職っていうのは、どの職業の者からも差別可能な逆スペードのエースみたいな便利なアイコンだと考えられる。
観念的な話をすれば、差別っていうのは「外の」「少ない」人間に対して行われる。
無職の人っていうのは、当たり前だけど職業階級の外にあって、当たり前だけど「少ない」
どんな卑しい仕事の人だって無職を差別する権利がある。と思わせてしまう構造がある

だから「無職差別があるかどうか」という観察から職業=身分の世界観を観察できる。
で、無職差別はあるよ。
「無職はダメだ」という人はその思考はバカの壁でないか考えてみた方がいい。

無職がダメだから、結婚相手が無職だと躊躇理由になるんだろう。
無職がダメだから、就活に学生は必死になるし、ブラック企業にすらすがってしまうんだろう
無職がダメだから、解雇を恐れるんだろう。
無職がダメだから、「選ばなければ職はある」みたいなバカげた話が出てくるんだろう。職を選ぶ事は全うでないのか?
以上の情動よりも、無職になっても幾らでも道はある、という実証された合理性が優先している?
していないから、ほとんどパニックみたいな以上のムーブメントが観察できる。

だから「職業=身分」という世界観はわりと広くみんな暗黙的に持っているよ。僕にはそう見える。

実際は無職って言うのは選択の結果に過ぎないので、その人の資質とはなんら関係ない。
にもかかわらず
「職業=身分」の世界観ではその人の身分と結びついてしまう。
身分が劣っているから資質が劣っているわけはない。わけはないのだが、そう思わせてしまうのが身分制だ。

無職は駄目だから働かなきゃ、
という聞こえのいい話を行う人は僭越ながらその発話が差別意識に基づいてないかの自己点検がオススメ


②「職業=身分」の世界観を見えづらくしているものは何か
現代以前の身分によってつける職業が決まっていた時代に比べれば、少なくとも本人次第で身分に関係なく職業が選べる時代というのは幾分かマシに見える。

Yes, but
マシはマシでも、身分制の根幹はかわってない。むしろ制度としての認識が後退した事の弊害すらある。
身分制の認識が薄いのはまずもって
「現代は自由な世の中」といういい感じの了解が教育その他を通じて膾炙しているので、
「身分制?ないよ?」という脊髄反射が問題なのが一つ。

さらにもう一つの聞こえいい言葉
「努力、素晴らしい。頑張ればどんな職業にもなれる」
この文による身分制の漂白感がひどい。

この文の行きつく先は、
職業=その人の努力を表すバロメーター、みたいなとんでもねえ論理だ。

善い職業についていない人は努力が足りなかったのか!?
「君には選択肢があった、今の結果に不満なのは、君の努力を怠った選択のせいだ」
こういう突き放す発話すら可能になる。

見た目の美しさだけでなくその人の総合力を評価するミスコンにしよう!
という発話が「人間コンテスト」みたいなおこがましい発想に結びつくのと一緒

「どんな夢も自分があきらめなければ叶う」みたいな反論のしづれえ文が現代のメインメロディーになってるせいで
「身分制は過去のものだ個人の自由(と努力)さえあれば人はなんにでもなれる」という発話が許されているがために、
かえって「暗黙の身分制」がより見えづらくなっている。

「努力、素晴らしい。頑張ればどんな職業にもなれる」
という文を否定しているようにとれるような論旨の運び方をしているのは自覚しているけど、
有り体には、自分の努力だけで今の「善い職業」を得られた人なんていないわけで、全うな感覚を持ってる人だったら「いろんな人のおかげで」今の自分があると実感するんじゃないかな。 努力だけでは不十分なんだ。周囲の人がいないとその目標には到達できない。
だから否定しているんじゃなくて、ミスリードだと言っている、嘘ではないが弊害が大きい。
以前書いた「夢=職業」のエッセイとここで繋がります。

「夢=職業」であってはいけない
http://d.hatena.ne.jp/s00442ts/20120617/1339916575

つまり
●職業の選択ができる。という事実がかえって「職業=身分」制を見えにくくし、さらに強化している。
③「職業=身分」という世界のおぞましい所
「職業=身分」制をどうして攻撃しなくてはいけないか。
それは、これがブラック企業を成り立たせしめている仕組みの駆動部分だからだ。
そしてその駆動は他ならぬブラック企業の被害者である雇用者が回している。

以上で見てきたような「あんな無職みたいな奴らにならないように働く!」というこの差別意識は、強い。
差別意識は強い情動だ、強すぎて合理性すら超越する。
情動は不合理な選択を人にせしめる。時には自ら死を選ばせることだってある。

ブラック企業で奴隷的な待遇を甘受する人が減らない。
それは、申し訳ないのだが、そういう方たち自身にも責任がある。
ブラック企業をやめる経済合理性よりも、身分転落の回避を優先した結果としてブラック企業にしがみついてしまう面はあるだろう。

今日本でよく聞く「雇用がなくなる大変だ!」という話はさ、「明日の暮らしが大変だ!」という経済的な不安も勿論あるだろうけど、
本音は「明日から披差別側にまわるかも!?」という身分落伍の恐怖の方が強いって実態があるんでない?

だからブラック企業の問題は、単純な法整備とかのトップダウンのやり方で解決できない。
職業についての僕らの世界観それ自体をいじらないとどうしようもない。

今年もよろしくお願いいたします。