なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか。そしてなんでそれはダメなのか

年の瀬だし、なにか季節ネタという事で
この時期になにかとドラマ化されたりする忠臣蔵批判を行います。
大げさに言えば、ここから日々人が感じる薄気味の悪い部分に触れる事ができるんじゃないかと思って。

12月14日になるとニュースの「今日は何の日」コーナーで「赤穂浪士の討ち入り」の日と紹介される。新年になれば4時間くらいのドラマがテレ東あたりで流される。何年かに一回映画になる。

日本人は忠臣蔵の物語が好きだ。

けど僕はどうしてもこれがイイ話だと思えない。


気がふれたとしか思えない前トップの資質を疑う事もしないで
一年以上ぐだぐだ結論を引き伸ばし(途中女遊び含む)精神論/根性論をこねまわしたあげく、
結局奇襲突撃して可哀想な老人をリンチして最後は全員切腹

ブラック企業にも通ずるヤンキーさ、全うでなさ。正直どのポイントで感動すればいいのかわからない。

でも「日本人は忠臣蔵が好き」という事になっている。
っていうか、
知る限り身の回りに忠臣蔵が好きな人はいないので、40歳以下の若い人で本質的に忠臣蔵を賛美する人はいないのだろう。中高年はいざしらず。
でも
「日本人は忠臣蔵が好きという事になっている」
この「なっている」という点がポイントなのだと思う。

つまり
忠臣蔵の物語には日本人の好む要素が含まれている、と”思われている”
ってことは、リバースエンジニアリング的に、
忠臣蔵から日本人の好む要素を取り出し。なぜこれが日本人好みなのかを検証する過程で
日本人が日本人をなんだとおもっているのか。なんだと思おうとしているのかという日本人の自己規定ループを発見できる。
「日本人は何か」という事の論以上に重要だと思う。なんでかっていうと多様なアメリカ人や多様なロシア人がいるのと同じに日本人は多様な日本人がいるので、「日本人は何か」という本質に迫る論にあんまり意味はないのだ。反証可能性が無限で居酒屋談義の域をでない。
と僕は思っている。

ただ、”自分たちがなんなのか”、と自己言及せしめる構造は間違いなくどこの国にもあって、我が国の場合はどうであろうかと取り出してみる事によって日本人が「どうでありたいか」をうまく文にする事が出来ると思う。

そこから日頃から誰しも感じるなにかこう人間の薄気味の悪さに近づけるかなぁ。とこう立て付けてから以下参ります。

1:忠臣蔵の仕組み
まず忠臣蔵をできるだけ要素還元してみる
●理不尽な行動に出たトップ
●納得感のない裁定
●解体させられる組織
●無理解な政府
●忠義としての仇討という選択肢
●悩むNo2
●悩む部下
●離反する部下
●凛として決断するNo2
●仇討
切腹

さらに忠臣蔵という物語それ自身まつわるメタ的な要素も列挙
・日本でおこった実話である。実話が元になっている。
・江戸時代から庶民に愛されてきた
・平和な時代におこった事件
・古い物語である

一文で表すと、
お上の裁定に「悩みながら」反対し、「忠義」を成し遂げ、散る組織、そして人々、こういう物語が江戸の「昔から」愛された。
こういう事かな

2:忠臣蔵の訴求点
どうして「日本人はこれが好きなのか」
という事だけど、
たしかにドラマ性はあるよね。
組織か個か、という悩みの対立軸がはっきりしていて「難しいよなぁ」と感情移入させられる。

忠臣蔵が流行るわかりやすい解としては、
「日本人は常に組織と個の間で苦しむので、日本人の自己投影しやすい物語である。」
というのはあるけど、多分深層はもうちょい深いので一旦おく。

あと、@chabin53も指摘していたけど体制側の悪い老人を懲らしめたという単純な爽快感が江戸町民にウケた。というのもあったろう。
結束するとつぇぇんだぞ。っていいよね。前半の悩みの描写が陰鬱であればあるほど、ここの反体制カタルシスたるや。

また、もう一つ
・古い物語である
というメタ要素に着目すべきと思ってる。
古いモノはいい。
って優先順位は日本人に限らず世界中で発生する行動原理で「屋根の上のバイオリン弾きアメリカ)」等でも用いられ持て囃される。
ただそれでも 、感覚的だけど
●古いモノにもいいモノはあるんだぞ!
っていう発話の効果が日本の空間では特に強い気がする。もっとストレートに言えば「古さ」で説得される人が多いと感じる。

例えば、
よくわからない慣例などに「昔からこうしているんだから」という理由でそれ以上の反論を諦めたり
逆に、「昔はよかったよなぁ」と新しさに疲れたときにボヤいた事のある人もいると思う。

忠臣蔵は日本人の好む古い物語。こうマークする。

3:日本人はどんな日本人になりたいか、そしてなんでそれはダメなのか
「組織か個か」
「反体制カタルシス
「古い」
忠臣蔵が日本人によく刺さる理由はこの三つに収れんできると思う。
この要素を三つとも、ないし少なくとも二つもった物語は結構列挙できる

踊る大捜査線
仁義なき戦い他、任侠モノ
・幕末
学生運動

ふむふむ

組織か個か、
この命題に悩まされる日本人が多い、って事は
組織に悩まされている日本人が多い、と取るのが一義的だけど
ひっくり返すと「個」も組織と同じくらい日本人の自意識の中に強力に立ち現われていると言える。
だって、個が取るに足らない程度の寄る辺だっだら人はわざわざ悩まない。
犠牲にしても良い位の私生活(自己)だったら会社に行く理由を悩む必要はない。
どっちも大事そうに思えるからそこに悩みが発生する。

実はそもそも日本人は結構個人主義が強かったのに、明治以降武家の精神性が民衆にまざった結果として今の日本人の気質が出来上がったという説がある。
また日本企業の日本企業らしさは、戦後多くの元軍人が民間企業に就職した結果、軍隊式の統制が行われるに至ったという説もある。
どちらもちゃんと検証してないけど、感覚的にはいい線いってると思う。

ここで、
日本人は個人主義者と組織主義者が混ざり合っている。という結論に飛びつきたくなるけど
実際にはもうちょっと根深い問題があると感じる。

ポイントはこの二つが脈々と対立するという点だ。

組織も個もどっちも日本の空間に原理的に根付いているという事は、
この空間の中では、どちらもどちらに対して反論不可能な批判が可能という事だ。
「組織が大事」という発話に対しても
「個人が大事」という発話に対しても
どっちも、「それは原理主義的だ!」と批判が可能という事だ。
つまり
「組織か個か」という議論は日本の居酒屋も含めた発話空間では決着のつかない永久対立構造になっている。将棋における千日手みたいなもんだと思ってください。
証拠は、本題である忠臣蔵それ自身だ。どっちが大事か決着がつけられないからこそドラマになっている。

ここに書いたことは「組織か個か」の対立が永久に解決しない。と言いたいわけではなく。
対立すると”思われている”と言いたいことを強調します。

だからなんだ?という問いについては後で巻き取ります。

さて、反体制カタルシス
いわゆる義賊、ロビンフッドやチェゲバラのように反体制のヒーローは普遍的なテーマで、物語としては熱狂的な感想を期待できる。
また往年の勢いもなくなったとはいえ、「ヤンキーもの」というジャンルもこのカテゴリに入る。

反体制。だから良い。
完璧な体制なんてものは歴史上存在したことがないので、反体制は体制の間違っている分だけ正しくいられる事が出来る。
議論のポジション取りとしては非常に有利だ。

それ故に
先の「組織か個か」に比べて「体制か反体制か」という議論は物語の対立軸としてはイマイチ感がある。
物語として圧倒的に面白いのは反体制だからだ。警察モノのように体制側にいる時は反体制側は悪人であって「反体制」ではない。

反体制が面白いからこそ、これだけ多くの人が、ヤンキーや労組やネトウヨになる。
この素朴な感想こそが、よくわからない日本の政治対立のヒントになっていると思うけど、それはまたの機会に。

しかしこの反体制。扱いが難しい。
なにかというと、反体制で一生いつづける事は出来ない。

局所的な発話としてはすごく面白いのだが、これを連続性のある「生き様」へと昇華すると途端に笑えなくなる。
一つには、反体制を貫いて体制側になると自分が攻撃される側になる、という定番の命題がある。どんな革命政権もこの流れに沿った。
体制側になれなかったとしても、現代において鵺のように変化する体制を一生批判し続ける事はひどく恰好の悪いモノになる。

だから反体制というのは一種の閃きのように、局所解として使うしかない。そういう性質を持った発話態度になる。

もう一つ特質がある。
反体制的な発話は理屈を必要としない。正確に言えばなくても成立する。
反体制の正当性は体制が悪ければ悪いほど強くなるので、内発的な理由が必ずしも求められないのだ。
少なくとも反体制的な発話が起こる局所としては。

わかりやすく言えば
反体制側として語る人はその語りを聞いてもらえる(受け入れてもらえる)確率が高いだから反体制は好かれるし、それが実現した時のカタルシスが凄い。
忠臣蔵の主人公たちがヒーローに見えるのは反体制だからだ。

てことは?
にこたえる前に最後に「忠臣蔵の古さ」
古いモノに現代と同じコトを発見する事によって普遍性を発見できる。
そうですよね。普遍は強さであり、正当だ。
これを逆用すれば、
現代と同じコトのある古いモノを発見する事でコトの普遍性を強化できる
って事だ。

忠臣蔵とそれを取り巻く我々の間で起こっているのはまさにこれだと見る。
なにか現代が強化したいある欲するコトがあって、それが「古い」忠臣蔵の物語の中にあるからこの物語が欲される。とこのような行き方になってるんだと考える。

以上の三つ。
1「組織か個か」という議論は日本の居酒屋も含めた発話空間では決着のつかない永久対立構造になっている。
2反体制側として語る人はその語りを聞いてもらえる(受け入れてもらえる)確率が高い
3なにか現代が強化したいある欲するコトがあって、それが「古い」忠臣蔵の物語の中にあるからこの物語が欲される。

これを巻き取ってみる。

冒頭のとおり
日本人が日本人をなんだとおもっているのか。なんだと思おうとしているのか
のヒントがこの物語に隠されていると感じた。

結論から言えば
★「日本では組織が個と対立するものだ」という教義が普遍的だという事を日本人は再確認しようとしている。
そして
★組織に従う事は反体制になりうるかもしれない、けれどもそれでも、それがカッコイイ事になり得る。
つまり
★「反体制の組織」であったとしても、組織は個と対立するべきである。それ位”組織は強い”。

よって忠臣蔵に行うべき突っ込みは
「組織と個が対立するなんて誰が決めたんだよ」
となる。
つまり、組織と個がどうしようもなく対立する。と忠臣蔵は教えようとしている気がするが、実際はそんなこたぁない。組織と個は両立可能だ。
その実証はあえて行わないけど、自明って事にしてほしい。というかこの稿はそういう立場で批判を行っていると思って欲しい。

一つだけ言わせてもらえば、組織は個と対立するほど強いもんではない。って事だ。

忠臣蔵をみていると「組織ってのは重いなぁ」と思わせるようにできている。ブラック企業のはびこりにはこの勘違いが一役買っていると思う。

別な角度で忠臣蔵批判を行えば
「組織か個か」という問い方それ自体が間違っている。
物語としては面白いけれども、普遍的な教義ではない。

忠臣蔵の主人公たちがこの間違った問いのせいで悩めば悩むほど、
「組織は強い」という「仮の事実」が浮き彫りになる。

これは不健全だと思うのですよ。
だからもう「組織か個か」で議論することそれ自体をよした方がいい。
それはかえって対立軸があるという事で組織を強くする。


これは「組織と個」がどうしようもなく両立しないことがあった江戸時代の話であって、別に普遍的な話でないだからただの歴史的な事実だとしてしまっておけばいい。
けど厄介なことに忠臣蔵は「繰り返されるべき物語」となってしまった。
再生産のループだと言っていい。年末になると忠臣蔵が放送されるのは、
これが日本人が「日本人はこれだ」と考える反復ビート、って事になってしまっている。

原発もいいけど、反忠臣蔵デモでもやりたいもんだ。

良いお年を!