正しい自殺

ちょっとヤバイ話をしてみたいと思います。

日本人の年間自殺者数はずっと3万人以上です。
減る気配を見せません。
死体が見つかってない例も数多くあるはずですが、この3万人に入っていません。

さて、話は飛びますが
年間に日本で発生する露出狂は何人でしょうか。
多く見積もっても年間1万件かそころじゃないでしょうか。

次に、
電車の中で思わず何の意味も無く他人の頭をはたいてしまう人は年間何人でしょうか。
多分1000件かそこらでしょう。

人間には「愚行権」というものがあります。
つまり道理の通らないアホな事をする権利です。
なんでこんな権利があるのかというと、
実は「愚行権」があるから人は愚行するのではなく、
そもそも人間は本来『なんでも出来る』存在であって、
そこに権利のメッシュをかぶせた結果、"余り"として浮き上がったのが「愚行権」なだけです。
法学的な意味の愚行権は多分もっと緻密だろうけど、さておく。

例えば肉体一つで音速を超える事はできなくても
人前で服を脱いだり、見ず知らずの人の頭をはたいたりする事をとめる物理的な制約は
なんらありません。

自殺も同様の愚行のカテゴリーに落とし込む事が出来ます。

自殺は、露出狂などと違って、はるかに不可逆的で困難の多い愚行です。
にもかかわらず、どうして他の愚行よりも実施する人が多いんだろうか。


ここ100年の現代思想において、僕らは
「語りえぬ事には沈黙しなくてはいけない」
という楔石を手に入れた。
多様な示唆を含む人間の思考の一つのターミナルとして僕は凄くこの文を評価している。
まあ凄いのはその文にいたる過程の方なんですが。

にもかかわらず、僕らは、自殺しかかってる人のところに行って
「君、語りえぬ事には沈黙しなくてはいけないんだよ」
なんてしたり顔で言って自殺を止める事はできない。

ここでもやはり、理論を現場に即座に当てはめる事ができない悩みがある。
高度な理論を現場に持ち込むためには別な方法論が必要であって、
年間3万人という自殺者を止めるには、人間の諸思想は今のところ無力である。

人間のもっとも高度で洗練された理性は
明らかで損の多い愚行を止める事すらできない。

ただし、
3万人を越える部分、
もしかしたら100万人いたかもしれない潜在的な自殺者を救うのに
ヒューマニズムや心理学が役に立っている可能性が高い事は特記する。
ここで問題にしたいのは
「それでもやはり3万人残ってしまい、そして増え続けている」
という点だ。

直感的には解決策はシンプルに見える。
「自殺はいけない、いじめもいけない」という言説が本心から全日本人に共有されていれば
問題は無い。

けどそれにもかかわらず
ある人のある一日の生の現場において「自殺が正しい」という念慮を常に払拭できない。
払拭できないからこうなっちゃってるのだ。

正しい自殺

ここでは正論をさておいて
「人間は自殺を正しいと思ってしまう事がある、それは露出狂などよりも正しいと思ってしまう」
という事実と向き合う必要がある。


「それは正しくない」
という説得が有効そうな気はする。
事実、自殺がいかに正しくないかという説を、何千人もが何百年にわたって提出している。
けど考えてみれば
正しいか正しくないかは、本人が決める事であって、
他人がどれだけそれを正そうとしても、自殺に望む人間にしかわからぬ悩みは解決されない

だからここで僕は問題の級数を一個上げることを提案する。

つまり、
●正しいか正しくないかを『決めない』
というやり方で自殺を留保してもらいたいと思っている。

だいたい、
決めすぎ
なんです。現代は。

小学生の段階で「将来の夢」を決めなくてはいけない。
クラスの中で誰が好きかを決めなくてはいけない。
右なのか左なのかノンポリなのか、非モテなのかリア充なのか
夢に向かっているのか向かっていないのか!元気なのかそうでないのか!
自分は何のか、常に決めなくてはいけないプレッシャーが現代の病の一つ原因だと見てる。

(僕は息子には「将来の夢」という学校作文を拒否させようと思っている。
『僕は将来、宇宙飛行士になりたいです。
(なので、パン屋さんや公務員やサラリーマンになる可能性をすべて捨てます!)』
なんて残酷で視野狭窄な宿題を学校が出したら猛抗議の構え)

自殺に臨む人が、なぜ自殺を正しいとおもうのか、は問題じゃない。
僕はそんな事を説得するつもりはないし、多分無理。
●なぜ、今、自殺は正しい事に決めなくてはいけないか
この問いを投げる事なら出来る自信がある。

いや。今決めないと明日にはもう間に合わない。
本当にそうなのかどうなのか。
それだけ考えてもらえばいい。

明日では間に合わない、今日自殺しなくてはいけない。

という回答もあるはずなので、そこは解決が必要だが、

要は全体を通してなにが言いたいかというと

現代は「決める」為の倫理を発展させてきた。

そしてそれは有効だったんだけど、
引き続き3万人救えない人が残ってしまっている。
そこで、「決める」為の倫理以外に

「決めない」為の倫理。ここを発展させて行くのはどうか。
倫理と言う語それ自身に対する挑戦になるが
やる価値はあるんじゃないかな。