どうしてアスペルガーが病気でその逆が病気じゃないのか

「未婚の母。私は別にいいと思うんだけど、それを嫌う人たちがいるからよしときなよ」
今週の安藤美姫の告白について結構みかけた反応。

これと同様な効果を持つ文として
エスカレーター。ホントは歩いちゃいけないんだけど歩く人の為に右側を開けておこう」
サービス残業。俺は良くないと思うけど、やるべきという人がいるからやりなよ」
ってのがあるよね。
しかし思う、
他人の気持ちってここまで考えるべき?

上記のように、考えなくてもいいくだらない他人の気持ちだってあるだろう。
でもこの手の発話はわりと市民権を得ている。
ていうか「他人の気持ちをわかる」事が生きるための必要条件になってしまっている。
その証拠に「他人の気持ちがわからない精神」という病気まで”発見”された。

そこでだ
なんで「他人の気持ちがわからない」事が病気で「俺の気持ちをとにかくわかって欲しい、お前が俺の気持ちをわからない方がおかしい」と願う事が病気じゃないのか。私見だけど、「アイツは俺の気持ちを理解しない」と抗議する奴の方が怖い。こういう人は他人に気持ちや空気を読んで貰わないと生きられないのか。


「他人に気持ちをわかってもらわないと満足して生きられない」という性質が誰かにもし本当にあるとしたら、それは健康的とは程遠いよ。赤ちゃんだって母乳が無くてもミルクで満足するんだぜ。
刺激的な事を言えば「他人の気持ちをわからなくても生きていける」人の方がよほど強い。
他人の気持ちを考える事が大事。という価値観はたしかに重要だけど、それっていつでもどこでも誰に対してでも当てはまるものなのかな?
包丁は便利だけど、だからといってどこへ行くにも持ち歩くもんじゃないのと同じコト。
みんな包丁を持ち歩いているせいで、冒頭のような「そこまでする必要のない他人の理解」が幅をきかす。

別な視点で言えば、
「ボールを受け取るのが下手」と「ボールを投げるのが下手」はどちらも病気じゃない。上手い人もいればそうでない人もいる。
同様に「他人の気持ちをくみ取るのが下手」な人もいれば「他人に気持ちをわかってもらうのが下手」な人もいる。
ただの能力の問題。それなのに前者を病気とするなら、後者も病気のはず。

●なんで「他人の気持ちをわかるのが下手」なのが病気になってしまうのか
人と人のつながりは「お互いの”気持ち”を理解する」事が最善で、それが出来ない人は問題を抱えている。と病気を決めている側の正当性は誰が担保してるんだろう。

痺れる言い方を許していただければ、「他人の気持ちをわかるのが下手」な人は虐げられているからかもしれない、かつて同性愛が病気だったのと同じ構造。 逆に「他人に気持ちをわかってもらわないといけない価値観」の人達はその性質ゆえに徒党を組みやすいので政治的に強くなれる。「空気が読めない人達」は「空気が読める人達/読みたい人達」に比べて、おなじ性質の人同士で団結したり一緒に戦ったりするのは苦手かもしれない。 だから「空気が読める人達の群れ」に分断され、疎外され、「健康でない」と焼印されてしまうのかも

このように
「空気の読めない人たち」と「空気の読める人たち」の政治的闘争は、そのそもそもの性質の点で前者が不利ではある。 

例えば、この世に「野球」しか他人と親睦を深められる遊びがなかったら、「野球の出来る/野球の好きな人たち」は団結出来るけど、そうでない人たちはどうやってつながればいいのか
「野球しか余暇をすごすレジャーが無い世界」で「野球が好きじゃないから」余暇を他人と過ごせない人達は”治療しなくてはいけない”というのが正義になるだろうな。 自分で仮想しといてなんだけどそんな世界の方が狂ってる。
「空気を読むことが幸福に生きるための必要条件な世界」は狂ってないのか

僕に言わせれば、「他人の気持ちをわかる人」たちが多数派で優位なだけだから「そういう事にされてしまっている」だけ。正当性はそうやって担保されている。


●なにか解決策はあるのか。冷静になって考えれば、「相手の気持ちを考える必要がある」局面ってそんなに多いんだろうか。 僕は自分の家族や親しい友達が辛い思いをしていないか、という事は強く気にするけど、仕事の交渉相手から取れるものがあるときは容赦なくとる。手心を加えるのは長期的にそれがカネになる時。職場も同じ、上司や同僚の気持ちを想像する時は自分にとってコトを有利に運ぶため。 逆に「俺の気持ちを職場の人に無条件に理解してほしい」なんて思いもしないし、逆にそのような期待を俺に向けられても困る。それは只の馴れ合い。伝えたいことがある時はデータやロジックを駆使して伝える。

だから「他人の気持ちを理解する」「空気を読む」事がいつもいつでも誰に対しても無条件に求められる、ってのは僕の見方では明らかに過剰な要求だ。
そこまでしなくても社会は回る。
前述のように「他人の気持ちを理解しよーね」という人たちが多数派だから「そうしないと回らない」という事にされているだけ。
僕は商社マンの癖に歌があまり達者ではないけど、ある日保健所から「音痴は治療可能な病気です」と小奇麗なパンフに書かれた相談窓口の案内が届いたら、「カラオケ以外にも接待はあるんじゃ!」と丸めて捨てる。事実そうだから。
だから解決策を何か提出するとしたら
「”気持ちを理解できなくても”ヒトとヒトの関係は成り立つ」って事実とその技術が開発されるべき、
って事になるのかな、
”気持ちを理解しないと人と人の関係は成り立たない”って信じこんでしまう病気の世界を治すには。