学校は「子供を大人へと治療するための」精神病院なのか

Togetterにまとめたものを文の形でまとめなおす。
http://togetter.com/li/522794

先ごろ、学生がUSJで迷惑行為を働いたことに対して神戸大学が謝罪会見をおこなった。
その謝罪はいつもの調子で報道されて、いつもの調子で発覚→炎上→謝罪の一つのループの完結として処理された。

ただ一歩引いて考えれば、
大学が学生のオフタイムの活動について「どうこうできる立場」であったとはあまり思えない。
教室の屋根が落ちてきたとか、学食から出火して怪我人がでた、とかなら学校が謝罪会見するのは全く良くわかるけど、
謝罪するって事は「学校は学生のオフタイムの活動に責任を負っており、食い止める事が出来たはずでした」という事であり、
素朴に「え、そうなの!?」と言わざるを得ない。それならもっと大学はガチガチ管理をすべきだろう。

っていうかおかしい。

こういう風に誰かが事件を起こすたびに行われる謝罪会見の中には、相当「お門違いの謝罪」も含まれていると疑われる。
ただ、そういうおかしな謝罪を「しよう」と思う人たちがいて、そういう謝罪を「よし」と受け止める人たちもいる。
この事実は結構深刻な問題を示唆していると僕は思う。

一言で言えば
「学校は子供と言う病人を収容する病院です」と言う認識が大なり小なり皆の中にあって、
それが教育や成長についての機能不全を呼び込んでいる。とこのように考えます。

どういうことか、
以下、整理を試みてみます。


1)謝罪会見はどんな時に行われていて、それは何を言わんとしているのか

学生だけでなく、会社員が業務外で起こした事件について企業が謝罪する事も無くは無いけど少ない。
痴漢で捕まる会社員は一杯いるけど、それについて会社が謝罪会見をやったという話は聞かない。もちろんインサイダー取引とかなら話は別。

「弊社は社員のオフタイムを管理すべき立場でしたけど出来てませんでした。ごめんなさい」
って言うのは雇用契約の範疇を超えた責任の取り方だろう。
謝罪するってことは「以後、社員のオフをきっちり管理します」って事?おかしいだろ
業務外に社員がどこにいて何をしているかを会社が把握し、指導し始めたら、それはもう業務外ではない。
出来るとしたらせいぜい通達を出して社員の自覚を促すくらいだ。


じゃあなんで学校は、学生の不始末を謝罪するのか。
一義的には、オフの学生についても責任がある。という認識が、学校側にも謝罪を受ける側にもある、
とこういう事だ。
生徒や社員の事件について、学校や会社が謝罪すれば納得感が生まれるのは事実。
その納得感を欲してる人たちがいて、謝罪会見がなければ誰かが血祭りになるんだから、「わかんないけど先に謝った方がいい」となるのもわからんでもない


例えば、「事件を起こさない学生を生産する」責任が学校にあるのにそれを果たせなかったから謝罪する。
とこういう事なら、
学生が卒業した後も卒業生が何かやらかす度に謝罪すべきのが製造物責任ってもんだろう。
でも、
卒業生の不始末について出身校を追求する風潮なんて聞いたこともない。

したがって、学校が追っている責任は
「在学中の学生の素行」に対してだけだ。
言い換えれば学校の任務は「在学中だけは問題をおこさせない」という事ですな。
それって教育と呼べるのか。

2)そもそも学校の仕事は何なのか
学校の
「学生が在学している間に限ってその素行全てに対し学校が責任を負っている」
と言うミッションによく似た施設がいくつかある。
例えば刑務所だ、精神病院もそうだ。

精神病棟なら「監禁すべき患者なのに監禁してなかった」 「正しく治療できてないのに外泊させて」問題を起こしたら病院の責任になる一方、
退院させてしばらくしてから問題を起こしても一応病院の責任は問われない。学校の「責任の取り方」に非常に近い。

刑務所も精神病院も共通しているのは「”問題を抱えた人”を治す施設である」という事だ。
入り口から問題を抱えた人たちを収容して、
ある基準を満たしたら出口から出す。

収容している間は、中の人たちの素行に責任があり、
監禁する事も外泊許可を出す事も出来、その判断を誤って事件を起こしたら批判される。
その代わり、一旦施設から退所させたら、退所のその日に事件でも起こさない限り
「卒業させた責任」は問われない。
そして大事な事に
「卒業を認める権限」は施設側が全面的に持っているわけではない。
刑務所ならば裁判所が決めた刑期、精神病院ならば客観的に妥当と認められる基準を満たした時。
ある種の任意性は施設側が担保していても、”特別な問題/症状が無い限り”恣意的に特定の収容者の拘束期間を延長できない。
実に学校によく似ている。

収容される側がお金を払う事になっているという点からは精神病院の方が学校の比喩としては一番適当だろう。

3)学校は「子供を大人へと治療するための」精神病院なのだとしたら、何が問題なのか
学校は「子供と言う”病人”を”大人”になるよう治療する施設」
なのだという認識が世の中に広く薄くあって、
その為治療中に患者が引き起こした災厄に学校は責任を持つ。だから謝罪会見をやれ。

という価値観には問題があるのか。
僕は問題があると考える。それはなぜか。

もちろん、
「子供たちを病人と決めつけてしまっては彼らの可能性を損なってしまう」
というユートピア的な批判も可能だ。

けど僕は問題はもっと深くにあると考える。

一つには
「治療の為ならどんな痛みを与えてもいい」
という了解が成り立ちうることだ。体罰がそれね。
次に
「症状が出ていなければ問題は治癒された」
という誤解を呼び起こす事だ。

病院にいる間は症状が治まってたけど、退院したら症状が出た。
なんてのはよく聞く話。
考えてみれば当たり前で環境管理が行き届いた病院と外界は違う。
精神病院みたいな特殊な環境だと尚更そうだろう。

学校が謝罪しなければいけないほどの「素行不良」を「症状」だとすれば、学校の初期目標はその「症状」を抑えることであり、
症状を抑えるために根本原因を取り除こうとする事はあっても、症状が無ければなにかその子の息苦しさの原因を取り除こうとは思わないからだ。
子供が鬱々とした悩みを抱えながらも、人に迷惑をかけないようにぐれずに、我慢して努力して、普通の大人になって、でも鬱々とした思いを抱えたまま。
そんなのが「いい生徒の多い学校」の目指す所なのか。

で、
さらに一歩引いて考えれば、そのような学校に「子供の体質改善」を求めるのはそもそも変だ。って考えてもいい。
極論すれば学校は勉強をしに行く所で、社会生活を学ぶ云々は副次的なもの。そういう割り切りがあった方がいい。
または
「自分を病人として扱うような人たちの手に自分の将来を委ねるのはバカバカしい。」
そのように感覚的に捉えたっていい。

教育を「治療」だと”期待”している人達がいるから、「学生の不始末の謝罪会見を学校がする」みたいなおかしな事が起きるし。
症状を努力して抑えた「普通の子たち」の悩みはつきない。

そんな学校になにかマシな事を期待するのは子供も親もよしといた方がいい。

以上で