イジメと地方と階級と物語

大津市のいじめ事件がひどい。
http://watch2ch.2chblog.jp/archives/4242856.html

この事件がこれだけ耳目を集めて、義憤を呼んでいるのは、いじめの内容それ自体の凄惨さよりも、その事実を「マチぐるみで」隠ぺいしようとしたフシがある。という陰謀論的なキナ臭さの方に理由があるように見える

そして、この事件も。
痛いニュース(ノ∀`) - 【秋田】 上小阿仁村の公募医師がイジメに耐えかね辞意 3人連続1年で - ライブドアブログ

無医村に来てくれた医師を(一部の)村人がいじめて追い出した。って事なのだが、すごいのはこれで三人目、って点だ。
モンスターペイシェント、って言葉は有名だけど、それがバイオハザードみたいに広がったモンスタービレッジなんじゃないかとすら妄想させる。もちろん、そういうモンスターは本当に一部の村人だけなんだろう、と信じるけど。

どちらの事件にも共通するのは

いじめ

地方都市

って点だ。

別に「地方都市はいじめをする」なんて話をするつもりはない、
当たり前だけど都会にもいじめはあって、人口の多い分その実数たるや凄いだろう。
ただ、
この二つの事件がこれほどにネットで語られ騒がれるのは、なんかがあるんだろう、と直観もする。
大げさにいえば、これらの事件とそれらに対する語り、は何かの構造的な欠陥の現れを示してるんじゃないかとも感じる。

だから、この稿で僕が書き出してみたいのは、前掲のポイントを少し変形させて

1)いじめ

2)地方都市

3)ネットでの騒ぎ

の三点が、何か僕らの気付いていない何かの仕組みを明らかにするんじゃないか、という着想についてです。
ちょっと意気込んで言えば、この二つの事件とその周辺について書くことは、なにかいろんな生き辛さ/つまんなさからの退出を手繰り寄せられる気がする。

では以下、

僕自身は東京育ち東京在住だけど、出張でよく地方都市に行った。
で、たいていの場合、駅をおりてしばらく歩けば「行き詰ってるなぁ」と第一印象を持つことが出来た。
東京に住んでいると駅と駅の間にも家と店がみっちり詰まっていて、町の隙間みたいなもんはなかなか見つからない。
地方に行くとその隙間だらけ、というか、ありあまる土地の中に店と家と、イオン(またはヨーカドー)そしておっきいパチンコ屋。

地方都市、に、対する東京。
東京にはいろんなもんが集まっている。東京があるべき姿で、地方は東京に姿を似せていくべきである。
正しいかどうかはさておき、
こんな言説が空気の漂っているように見受けられる。

これは、自然の中に順列性を見出す人間のものの見方にも一因があると思う。
地方都市は東京に向かっていく途上。こー言う発展段階論で世の中をとらえれば、なるほど地方都市は「遅れている」
っていうか、地方都市には遅れていてもらわないと東京の「進み」をそれとして知覚できない。

ピラミッドイメージするとわかりやすい
頂上の要石が東京、二段目くらいに大阪、名古屋、福岡、3段目にその他の政令指定都市
で、どんどん下にあまり名前も知らないような市や町や村が下に続いていく。

ピラミッドのほとんどの部分がその裾野にあるように、日本の人口の大半は東京以外にある。
にもかかわらず、ピラミッドは要石があるからピラミッドになるように、
地方都市が東京の下部構造となるような、そーんな認識の仕方が大なり小なり誰のこころにもあるとここでは仮説する。

この仮説に従えば、大津、そして秋田。地方都市をマチュアさとは断絶した土地。なんでそういう風にしておきたいのか、その理由の端緒が見つかる。
この構造それ自身をいじめと呼ぶことは出来ないけど、いじめとおなじビートを持っている。
わかりやすく言えば、階級構造。

階級構造があるからいじめがある。っていう伝統的な言説もあるけど、僕は実態はもう少し複雑だと見る。
まずもって、
階級はフィクションであり、人間の恣意でひかれた空想上の産物にすぎない。
フィクションだから、階級は多次元的になりうる。一次元の順列がからまりあったスパゲッティをイメージするとわかりやすいかも
年収が高い低いの階級もあれば、彼女が可愛い可愛くないの階級もあり、「世の中の事をどれだけ知っているか」で構成されている階級もある。
余談だけど上に挙げた例の三つ目は、面白い事に一般的な社会階級ではアウトローに分類される人ほど信仰している傾向がある。と僕は観察する。

さて、
階級それ自体が一種の物語性を持ってる。
それは物語の特徴である「登場人物が限定的」「類型がある」「覚えやすい」そして「事件への接続が可能」という点を満たしている。
ここでいう事件はエピソードの事だ。物語のテーマに直結するような事件が物語の中で、階級を意識させるようななんらかの事象と、そしてその反復を意味する

こーいう様を「物語のプラットフォーム」と呼んでもいいかもしれない。
物語のプラットフォームを以下例示する。
例えば、アメリカのドラマは物語それ自体よりも、物語を発生させる舞台装置に凄く凝る。

Dr.Houseという医療ドラマがある。
これは患者を苦しめている病気の原因を事件の犯人と見たてた推理モノという建て付けで、
毎回毎回ひっかけ問題のような患者が登場する。
また、登場する医師も主人公のハウスを筆頭にみななんらかの形で病んでいる。
この多様に形をとる「病気」を見事な推理で治していく、という反復が毎回実に見事で、飽きさせない。
大ヒットとはいかなかったけど「フラッシュフォーワード」もまた舞台装置は見事だ。
これは全人類が数か月先のある日についての記憶を突然持った、という設定のSFドラマで
この装置を使えば幾らでも「小さい物語」を創出出来る事に気付く。ある意味脚本家にとってはやりやすい装置があった。

作品ではなくとも
同じように血液型診断や星座占いも、物語を生成するいい装置である。
ある一日のあるありようについて
O型のアイツ、B型のオレ、AB型の私。で幾らでも説明をつけられるし、
「O型とは一緒に仕事できない」という類の未来に対しての投げかけも出来る。

重要な点をここで一つ提示すると、
あるドラマのエピソードがあるので、プラットフォームが出来上がる、という訳ではなく。
また
物語のプラットフォームがあるから、あるドラマのエピソードが出来上がるという訳ではない
くどく言えば、血液型診断があるから、人物に対しての予断が発生するわけでもない。

プラットフォームと、また物語内のある事件と、どちらがどちらかより遅れてやってくる、ということは無い。
これは相互に依存しあう関係と言ってもいい。またはどちらも互いを前提とする関係。
囚人のジレンマで、自白してしまう二人の囚人が、互いの自白を前提とするような。
ともすれば同一なのではないかと疑いたくなるような関係性が、物語と物語のプラットフォームにはある。

(物語世界、という言葉でこういう態を表してもいいけど、僕は世界よりももう少し機能性を前面に出した「プラットフォーム」という語でここは行きたい。)

話を戻します。
つまり階級が物語のプラットフォームで、いじめはそのプラットフォームの中で発生する或る事件。とこういう事にしておきます。

いじめは姿かたちのある疑いようの無い力の行使だ。いじめをする事に「正しさ」を階級構造が与えてくれるが、いじめがあることによって階級構造は姿かたちをもったパフォーマンスとなる。
階級の正しさは、いじめというパフォーマンスが裏付ける。だから、階級があるからいじめがあるとは言えない。

でだ、こー言う風に話を運んでくると
ネットで大津を叩く、秋田を叩く、これらもまた、やはり階級構造の一つのパフォーマンス。とこういうことになる。
扇情的に言えば、
大津のいじめそれ自体も、その大津のダメぶりに義憤を燃やすのも、どちらも「生贄を必要とする正義」であるという点では変わりない。
これって、とってもフラクタルだと思う。

大津がダメであればあるほど、 中央>地方 の階級制は保持され、またそれが内包する物語のプラットフォームも強化される。大津のいじめ事件について、「怒る事を期待された」ニュースの流し方がされているのもある意味当然と言える。


正直言うと、こういう構造が良いか悪いかなんて話にはここで踏み込むつもりはない。
ただ人間は、あまり論理だってない架空の立て付けに対して、「なんかここ行けそうだから」という理由で踏み込んでしまう事がある。
道じゃないのに、なぜか踏み固められたので通りやすい、けもの道みたいなもんだ。
そーいうのがここでも出来上がってしまっている。この話を反復しているだけの稿なのです。

階級という事に関して言えば、けもの道ならぬ「けもの壁」かもしれない。
本当は、地方も、いじめられっ子も「追い詰められて」いるわけではないのに、もうこれ以上どこにも行きようが無いように見えてしまう壁。


けど、少し明るい話もしたい。
階級物語が有効性を持ってしまうのは、上層と同じくらい下層もその物語に浸ってしまう場合だけだ。
物語の中で下層とされる人たちに、「知るか」と言わしめてしまう物語はあまり階級物語として強くない。
例えば、趣味の分野では「マニア」が「知らない人たち」を馬鹿にするが、
下層である「知らない人たち」にしてみれば「興味ない」で済む話なので、階級物語としては悲しいくらい弱い。


なにかこう、優位に立ちたい人がいて、その人が、誰かに対するいじめによって自分の優位性を誇示ろうとしてきたら、
その優位性をうらやましいとおもってはいけない。階級の物語の一部にされてしまう。

競い、または強く、あるいは自立して、生きたい。というのは根源的で本能的なせつない渇望で、その事自身は否定しきれない。
けど、
それを実現するための路が、他人に押し付けられた物語っていうのは、あまり良いものと思えない。

いじめで亡くなった少年が、自分を殺すような階級ではなく、もっとマシな物語に出会えてさえいれば、と思う。特に僕自身も人間の子の親として。

多分大事なのは、
マシな物語を提示する事ではなくて、むしろ「出会う」方。
物語の選択性を、もっと。
けもの道に入らなくとも良い、そういう寛容さを。 または余裕を。
そこを急いだ方がいいかもしれない。