「家」主義への帰り道
僕がこどもの頃に接した「大人が眉をひそめないような」マンガ、ないしジャンルを問わず文部省が推薦するような作品は個人が組織や国家に縛られず自由になっていく過程を美しいものとして描いていた。
または、戦争は悪いものと教わった。転じて戦争は国家間の争いであるから国家も悪いとする教え方に接した。
それと同じ文脈で、個人が家=イエに振り回される悲劇も溢れていたと覚えている。
例えば「ロミオとジュリエット」だ。モンタギュー家とキャピュレット家の諍いの為にロミオとジュリエットは自由に恋愛が出来ない。
恋愛でなくても、例えば才能や夢を持った若者がウェットな家のしきたりに縛られて村を出れない、って言う類型はいろんな物語で見ることが出来る。また学校の授業ではいわゆる父親と長男が尊重され権力が集中させられる家父長制は戦前の遺物として扱われた。
ロックンロールやパンクは家のために歌わない、俺の為に歌う。
家、村、国家、はしめつける古い服であり、それらを脱ぎ捨てて我々は自由な個人として羽ばたいていくべきである。
と、物語や歌をこのような教訓で閉めれば一作できあがる。
国家から自由であるべきかどうか、自由でいられるかいられないか、って言うのはハンバーグのようにどの界隈でも人気のトピックなので、そこは避けて、ここでは焼き魚定食のような懐かしさすら漂う「家」の自由で無さの実態とその自由さ、それからそこへの帰り道について書いてみる。
インターネットは個人をエンパワーする。
と、こう教わったし、それは信じられているし、実際そのとおりになっている。
FBやツイッターが独裁国家を倒す、倒した。国家の嘘をインターネットが暴く。今年はその手の物語が豊作だ。
ではインターネットは家を倒すだろうか。
誰かが「自由でない」と感じる家を、不特定多数の群集が一丸となって打ち崩す。そんな物語は可能だろうか。
ちょっと無理だ。
僕は個人を家から解放するものはむしろ近代国家であると思っている。
インターネットの敵だとされる国家は、家に対しては解放軍のような白馬の騎士として戦いを挑む。
憲法が定める権利、社会保障や、税金、これはまず一義的には個人と国家間の関係によって始まる。
言論の自由は家に対して与えられない、個人に対して与えられる。
家それ自体は徴兵されない、徴兵されるのは若い個人だ。
むしろ家から自由であろうとして、個人が作ったのが近代国家の今の形であると見ることも出来る。
で、その解放軍であったはずの国家も個人のターゲットになっている。
では、家から自由になったあと、国家すらターゲットにされている時代にあって、
自由な個人はそんなことして大丈夫なのか。
大丈夫ではない。
と言う所から僕は出発しなくてはいけない。僕は強い個人を知らないからだ。
強いと思っていも、虚栄であったり、または何かに依存しての強さであったりする。
知っているのは、自分は弱い事を知って認めているので繋がって生きる事を進んで選ぶ「強い個人」だ。
こんな孤独な都市の個人、を救済するセーフティーネットが傷んでいて、
終身雇用するニッポンの会社、という暗黙の保障も信頼を失い、
そういう、
なんかもうもはやなにも期待出来ない時は、家に帰るといい。
なぜなら家に帰ってあったかくして寝ることに理由はいらないからだ。
家はこのように非合理だ。
企業は稼ぎの悪い子会社を精算したり売り飛ばしたりできるが、
息子や旦那の稼ぎが悪いから絶縁!とは行かない。
知性と、それを扱う人が乗数的に増える時代にあっても、必ず知性/合理性で救えぬ部分は残る。
むしろそういう割り切れぬ部分が全てと言ってもたぶん許される。
僕は知性や理性や冷静さが好きで、それが無いと無謀な戦争に飛び込んだりする事を知っている。
一方で、知性的に知性を扱うことの限界も自覚している。
そのために、理屈じゃない、緩さに身を浸す場がどこかに残されていないと結局のところどこへも行き着けないどころか、身を壊す事すらあると考える。
矛盾や甘えが許容される場はそれを望む皆に与えられるべきだ。
要は、みんな強くないんだから家を作ってそこで一緒に住んだ方がいい、とこのように言いたい。
国家や思想よりも家を大事にしていい。
しかしここからが大事なのだが、
逆に
家が弱い個人を受け止められなような場合、甘えや矛盾を家の外に求めるようになる。
それは危険だ。知性によって回転する社会に対する挑戦だ。
経済のレベルでは、大王製紙の創業家出身社長が会社を私物化する事件があった、
または、沸いては消える人間関係への過剰な依存を引き起こし悲劇へとつながる。
家には合理的でない甘えを守って育む力がある。それは知性的な社会と立派に並び立つ事が出来る。
だから今一度、帰って寝る家の大事さに目を向けたっていい。