正しさに振り回されない決め方

放射能は怖いのか、怖くないのか。
増税は必要か、すべきでないのか。
社会のせいなのか、自己責任なのか。
20代がすべきことはなにか。男としてなにが求められているか。
大人が正しいのか、若者が正しいのか。

想像以上に世の中は問いで一杯に見える。
そして下手をすれば問いの数以上に答えがあるように感じる事もある。


震災以後、かつてないほどのデマが飛び交ったせいもあって
いつにもまして、「オイラの答えが正しい」という物言いを沢山みた。
それは僕もついやってしまう事なのであまりえらそうな事はいえないのだが。。
それでも拙い自分の経験から「これが正しいからこれに決めるべきだ」という姿勢は危険だと知っている。

正しさは危ない。放射能よりも危ないかもしれない。

人間は利己的な生き物と仮定する学問もあるけど、他方「正しいのならばしかたない、自分は損をしよう」というように正しさに従って自分を奪われるに任せてしまう人もいる。

だから、正しさよりもまず自分の損得を第一に考えていい、という言い方をここで試みたいと思います。
自分が仕事を通して得たある種の態度に由来して考えたことです。では以下、

商社マンの端くれということもあって僕の仕事の一つに外国との交渉がある。
交渉は言葉を多く使うコミュニケーションの作業なのに、それと真逆に孤独でもあると僕は感じる。

交渉の仕事をする時の僕はもちろん自分の会社の利害を第一に考える。
自分に都合の良い条件を相手から引き出すには、
交渉相手の利害が何で、何をこちらから与えれば何を相手から引き出せるかを考える事を避けずにはいられない。
ここから孤独が始まる。

相手の立場にたって考え始めるとき、僕は徐々に自分の会社から離れていく。
気がつくとまるで自分が相手の利害を代表する人物であるかのような思考に入っていく。
相手のためにこちらはここまで譲るべきじゃないか。というように。
相手について考え尽くし、落としどころをみつけても、交渉の準備としては半分しか終わっていない。
その落としどころをこちらから与えられるように自社内を説得しないといけないからだ。

この時になると僕はもうすっかり相手陣営を代表する人物のようになっている。
相手陣営側の人間としてまるで売国奴のように自社内を説得して回る。
自社内を説得するときは、これもまた一つの交渉だ。自社のその該当する部署の人間の立場にたって考える。
実はその過程を通して、当初に設定した「自社の利害」が段々変容して「本当に必要なのがなにか」がよくわかってくる。 そして要求すべきことは何で、その中の何ならば相手からもらえるのかがわかってくる。


この再帰的な作業をなんとか期限までに終わらせ、そして交渉の場に現れる。
ここでの僕は自社陣営でも交渉相手陣営でもない人間として、ただ場を進行させあらかじめ調整してあった落としどころへ導く作業をやるだけだ。綺麗な交渉ってのはこう進む。
しかし終わる頃には徹底的にいろんな人間について考えつくした結果
僕は同時にいろんな人間であるとともにどの人間でもない、ひどく切り離された存在となってしまう。
全員の利害を考えすぎて、そもそも自社の人間であるかも定かでない、二重スパイの孤独と同じだ。

全ての人をわかってしまいすぎて、自分がどの地点にいるのかがわからない。
実は「何が正しいか」はどうでもよくなっている。正しいのは合意された交渉の結果だけだ。 
そういう歪んだ仕事が交渉仕事、僕はそう捉えている。

僕が先に「正しさが一番危険」と書いたのはこういう経験を通してからきた事に由来する。
自社相手含め、10人いたら10通りの正しさの間を走り回って、全員が幸せになれるように骨を折るとき、
自分の正しさにだけ固執する人はひどくやっかいだ。
その人の正しさにだけ沿ってしまうと残りの9人はいつまでたっても不幸なままだ。
どれだけ正しさに説得力があろうと、合意できないのであればその正しさは採用してはいけない。
倫理や論理を超えて判断をしないといけない、そういう傲慢さと暴力が交渉にはつきまとう。
(ちなみに、交渉を仕切る人間としては、こういうときのテクニックがある。この人物を「はずす」のだ。たとえそれが自社の人間であっても。)

反面、これほどに他人を知ろうとすることに情熱を傾けられる仕事もない。
全く不思議なことに、自分の利害を第一に置いたとき初めて他人を知ろうとする情熱が生まれる。
孤独ではあるかもしれないけど、それゆえに誰の言うこともわかる。


むしろなにか「その絶対的な真理の正しさ」に身を寄せて、それに他人を引き入れようとする営みよりも、自らの利害のために他者と互恵しようとする関係の方がはるかに豊かだとすら感じる。

もちろんうまくいかない交渉も多い、けどそれはそれでいい。
つながったりきれたりが無限に繰り返される風景の方がはるかに有機的で力がある。
正しさよりも、合意を、というか合意に至るその言葉の交換過程大事にすることはそんなにいけない事なのだろうか。

だから正しさがわからない時は、まず交渉してみるのがいいと僕は思っている。
その為には自分の利害は何か、何が自分に必要か、それを最優先で考えていい。それは悪いことじゃない。
踏み込んで言えば、この「自分の利害」を自分に聞く作業から交渉が始まっている。
当初に設定した自分の利害はやはり変容する、もちろん交渉の過程の中のいろんな相手とのサブ交渉を通して。

はじめの設定は緩くてもよくて、むしろ「今日みたいな一日が続くといいなあ」という程度の身体的な感覚の方が出発点には適しているんじゃないかと思う。その方が交渉への情熱を身体から汲み出す事が出来る。

出発点が定まれば、あとはそれを得るための交渉相手を探すだけだ。
ラッキーなことにごまんといそうだ。
交渉しながら「そもそも自分はなにが必要か」を探っていくことも出来る。

重要なのは、正しさじゃなくて、誰かとの合意、そして合意に重要なのは自分が欲すものを大事にすること
なんてのでどうでしょう