語りのための語り

飲み会で、帰宅中の電車内で、喫煙所で、
なにかというとサラリーマンは「ぼくの考えた会社の良くなる方法」を語る。

それはサラリーマンでなくてもそうだ。
例えばアルバイトたちの休憩中であっても、
もしくはサークルの部室であっても
とにかくいろんな場で僕たちは誰かの「うちの組織をもっとよく出来る」語りに出くわす。

日本人はおとなしい
というステレオタイプが欧米の人を中心にあって
それを一部の日本人も取り入れていれたせいで日本人自身がそう信じている節があるが
必ずしもそうではない。
上記のように「語る日本人」に僕らはしばしばでくわす。

(ちなみに「日本人がおとなしい」ステレオタイプ
 日本人が英語をしゃべる事を恥ずかしいと思う癖のせいだと僕はにらんでいる)

こうやって書いてる僕も「語る日本人」をやっている自覚がある。

ずるいようだけどこの稿で取り上げたいのは
・オフラインのカジュアルな場で
・個人特定できる集団に対して
・自分(たち)の属している組織について
語っている人たちを対象にしたいので、
これを書いている僕自身は論の対象からは除外させて話を進めさせていただけると幸甚

「語る人たち」の中には
口ぶりが
”おれが社長(ないし経営陣)じゃないからこの組織はだめだ”
または
”誰もおれの話をきかないからこの組織はだめだ”
などの姿勢の人たちがいて、最初はいいのだがずっと聞いているとひどく気分を害する。

気分を害する理由は簡単で
語る当人が自分の絶対性に酔っていて聞いている人を置き去りにしているからだ
もうちょっといえば、語りの中身の正誤はさておいても
コミュニケーションとしてなりたっていないのでひどくつまらないのだ。

家に帰ってブログに書けよ(俺みたいに)
って思ってしまう。

ただ語っている当人としては、
ブログでは得られない生の
「そうですね〜」
「なるほど〜」
「たしかに〜」
「(相槌)(相槌)」
などの
”聞かれている感”が欲しいのではないだろうか、
家に帰って自分の言いたいことを書き出してみる
なんて事をしない。

こういう人の目的は、ようは
「語り」たいだけ
なんじゃないだろうか

つまり
語るために語られる語り
って言うのが確かにある。

話は飛ぶ、
国家以前の社会として
いわゆる未開民族では酋長社会ってのがある。
けどリーダーのいない文化もある、
民族内のコミュニティの集落が100人弱だと、人目でわかる制度化されたリーダーのいないケースが多いらしい。
けどその場合であっても
大体の集落には文化人類学の分類で「ビッグ・マン」とされる人物がいる。
ビッグマンの地位は世襲しないし、他のメンバーと同じような生活をするので酋長とは違う。
(逆に言えば、世襲して、それとわかる外見的アイコンをまとっているビッグマンは酋長だ)
ビッグマンには特権はないが、
その代わり話し合いの場でビッグマンの意見が尊重されるという特徴がある。
尊重される理由は最年長者であったり、心身的な強さをもっていたりと様々だが
とにかく、ビッグマンのようになりたいとコミュニティの若年者は思うらしい。

転じて言えば
彼の語りを集団が重んじて聞く、
というこの特徴がビッグマンをビッグマンたらしめているとも言える。
年が若く、心身的な強さが無くても
なんらかの理由で(たとえば偶々?)その人の意見を皆が聞く人物がいたら
その人物はビッグマンと認められるかもしれない。
と、文化人類学を専攻してもいないのにこういう仮説を提出したい。

話を現代に戻す。
僕は人間の本質ってのは、スタート地点から移動はするが思ったほど遠くには行かない
っていう感覚を持っている
だから、この未開社会のビッグマン的なコミュニティの構造は現代でも生きると思う。
なにが言いたいかというと
●コミュニティの中で、制度的な地位は無くても、収入は低くても
 それよりも自らの「語り」をコミュニティの他人に聞かせれれば自分は満足
 なぜならばそこでは自分はビッグマン
こういうモードで人は動いてしまう事がある。という事実を指摘したい。
(動いてしまう人がいる、ではなく、人は動いてしまう。
 これはそういう種類の人間がいるという話ではなく
 僕も含めてもっと普遍的な傾向だと思う)

って言うか
こう言う動機を僕は全然否定するつもりは無い。
別にあってもいいのだ。
むしろ
語りをもっと聞いてもらいたいから、より深く、人に聞いてもらうために自分の語りの内容を考えよう
っていう隘路に入れば刀匠が刀を作るようによりよい意見をもって語りの場に来るかもしれない。
その意見はもしかしたら磨き上げられた結果かなりいいモノになっているかもしれない。

問題は、
現代には「相槌の技術」みたいなもんが出来てて
たいしたことの無い意見でも、それなりに聞いてもらえたりする。
特に先輩後輩関係みたいなもんが前提としてあると、
語る人は論の中身を気にせず語り続けて、質の劣化につながる。
こういう質の悪い語りを淘汰できる構造が無いと、いい感じの腐敗につながる。

だから
語っている、だけでは正義じゃないし善い事ではない。
聞く人の顔を見ながらしゃべるのがなぜ重要なのか、
そこを考えないといけないな。

と自戒をこめて