江戸化する日本、またはうまくやろうよガラパゴス


僕は放送業界の端っこで商人をやらせていただいてるので、多少なりとも日本の放送業界の”村っぽさ"に触れている。
具体的に言えば外国の企業が参入しづらい市場なのだ。

有名なところでは放送局の大株主に外資がなることは出来ない。まあでもこれはどの国でも良くある規制。
しかしそれとは別にわかりにくいところで、日本のデジタル放送の仕様/規格は日本独特のものが結構あって
外国のメーカーが日本向けに放送機器を作る場合この規格に適合するコストが発生してしまう。
規格によっては日本語でしか書かれていないものもあって、その段階で障壁があったり
さらに、「仕様書をどのように読み解くか」みたいな点に「日本の電機メーカーじゃねーとわかんねぇよ」みたいな文法があって
もう何が何でも日本のメーカーしか放送機器をつくれない建てつけになってる。
ここまで仕切りに仕切った日本の電機メーカーには舌を巻く。

こういう構図は放送に限らず通信や建設、そして農業の業界でも見ることは出来る。


上記の状況を「ガラパゴス」と呼んでわらうのは簡単だ。

ただまあ、この段階でくるりと回転して
別にこれは違法でもなんでもない、ある意味自社の雇用を守ろうとする日本メーカーの切ない企業努力の結果だ。
とも僕は言いたい。
もっと言えば、ガラパゴス化にも意味はあって、実はこの構造はある一つの目的へ向かっている、
それは「戦争をしなくても済む世界」という方角だ。


「グローバリゼーションだぜ」「自由競争だぜ」とか言っていられる僕らのいまの世界は
その前提として「平和である」という背景を持っている。
月曜日の朝起きて会社に行って満員電車の中で自分の呼吸する空間をなんとか確保しながら感じる”こんな社畜があと40年近くも続くのか"という絶望は、
「死の恐怖に怯えなくても済む世界」があと「少なくとも40年」続く事が前提だ。
逆に言えば
あと40年以内に戦争が起きそうであれば社畜の皆さんにはグッドニュースだ、近くその満員電車は線路ごと爆破される。

独立戦争
という言葉が示すとおり、戦争は「自立」のためのもの、とラベリング出来る。
侵略戦争
はそうではないだろう。とも思われるかもしれないが、
よくよく考えてみれば「俺は悪になりたいから戦争をするのだ」
なんてバイキンマンみたいな動機で行動する人間はそうはいない。
むしろ「拡大し続けない限り死んでしまう生」
または「拡大を前提とした国家」という悲劇を孕んでしまっている構造が侵略戦争に先立ってあると想定すれば
全ての侵略戦争は自衛のための戦争と捉える事が出来る。
だから全ての戦争は、生きるための戦争と言える。(※1)

そういう意味で昭和前半の日本の戦争が侵略戦争だったのか自衛戦争だったのか。という議論はナンセンスでかみ合うわけがない。
ま、それはこの稿の本筋ではないのでさておき。

全ての戦争は生きるための戦争だとすれば、
生きていられさえすれば戦争はしなくて済む。こういう事だ。

自立して、生きていられれば、死ななくて済む。
生殺与奪の権利が自分または自分たち以外の何者かが握っていない。
その状態を維持できれば戦わなくて済む。
当たり前の事を言っているようだけど、このフレーズを繰り返して行くうちにわかる事がある。

ざっくばらんに言ってしまえば
参入障壁も「閉鎖的な市場」もガラパゴス化も、日米同盟も、全部平和の為のものなのだ。
他国からの供給に頼らず自分の国の資源だけで全人口を食わせていく事が出来るのならば
それほど平和で素晴らしいことは無い。
それが出来るのならば。

「韓国は自国内の市場が小さいので、海外に活路を見出すしかなく、だからサムスンやLGが出てきた、羨ましい」
と言う人もいるが、そういう状態を僕は必ずしも羨ましいとは思えない。
1億人が同じ1億人を相手にした仕事を延々40年続ける事が出来るのであればそれはそうすべきなのだ。

問題は、この平和の為の自立っていうのはすごく困難で
「時代背景」「巧さ」、「シビアさ」「強さ」そして「決め方」といった持ち物が必要になる。

時代背景と巧さ、
って言う点では江戸ほどうまくいっていた時代は無い。
いわゆる食料自給率は100%だし。エネルギー自給率も100%。
日米同盟みたいなものが無くても2百年強は他国からの侵略を恐れなくてよかった。
人口については当時世界最大であったという研究もあり、いまなお評価の高い独自の文化も花開いた。
こういう条件がそろっていたからこそ「鎖国」がなりたっていた。とも見ることが出来る。

たしかに産業革命からは取り残されたけど、
18世紀後半の急速なキャッチアップをみれば結果的には江戸があったから今の時代があったと断言していいと思う。
っていうか極東の島国が江戸時代に仮に「鎖国していなかった」としても産業革命の波に乗れたのかっていうと疑問がある。
乱暴な言い方をしてしまえば僕はこれからの日本は江戸時代から学ぶべきだと思っている。

とはゆえ、ここで問題になるのは「決め方」だ。
例えば日本は食料自給率100%を目指している。
っていうか、正確には
日本の農林水産省が食料自給率100%運動をやっている。

ここまでの議論を巻き取って言えば僕は食料自給率100%に賛成すべきなのだが、
正直に言ってしまえば「食料自給率100%運動」を僕は単純には買えない、と思っている。

本来なら食料自給率100%を目指すならばエネルギー自給率とセットで論じる必要があるのに
そうはなっていないという点に、単純な農家保護政策用のお題目っすね、という意図が見え隠れするのだ。

原子力を除く)日本のエネルギー自給率が4%(http://www.hepco.co.jp/ato_env_ene/atomic/pluthermal/02-02.html
という状況で食料自給率100%を達成したところでエネルギーの供給を他国に依存したままでは食料生産が自給できているとは言えない。

「自給して平和な世の中をつくるぜ」
って決めるのはいいのだが
何をどう自給するのかって議論を一つ一つ精緻に決めていかないと、
そしてその決め方を決めないと僕らは袋小路に入っていく。

例えば忘れがちだけど、僕らは軍隊を自給できていない。
防衛自給率なんて数字はないけど、もしあるとすれば僕らは防衛のそれなりの割合を米国から輸入している。
それでいいのか。
それでいい、って決め方もある。

労働力を自給できていない、って考え方もある。
それでは良くないから移民を入れようっていうのだって一つの自給の考え方だ。
ところが実は移民に関連する議論がヨーロッパを中心に年々たかまっていて、
ついには「中国へのアフリカ系移民が増えている」というのが中国内で問題になっている位だ。

こうやってつらつらと議論できるが、
単純に「世界に開かれているからいい国だ」とは一概に言えないと僕は言いたい。
むしろ「開かれてさえいればいい」って議論は単に論者がいい気になりための快眠グッズにしかならない。
逆に
「閉じてさえいればいい」って議論も全く同様であって、
「開かれているか」「閉じているべきか」は仕事の出来ない人がする議論であって、
「生きるためには、何を開いて何を閉じるべきか」という建設的な議論が
僕らの世代の日本人の仕事と考える。