美と萌え

●「美」と「萌え」は違うのではないか。
という命題について考えてみる。

「美」と「萌え」という単語それ自身の定義に踏み込むとかなり時間がかかる。
萌えはともかく、
美については過去いろんな偉人がそれを定義づけようと仕事をしたけど
どれも確定的な結論を得るにいたっていない、
萌え、についてもいろんな議論がなされているけど同様。

余談になるけど
そもそも語の意味、というかその指し示すもの、を追っかける事はあまり意味が無いのだ。
問題はその語が他の語とどのような関係性の元でなりたっているのか、という
記号間の違い、が重要だと俺は思っている。

加えて言えば、その語の使用こそが問題であり
その使用についても、使用する場面によって様々なモードがある。

したがって、
「美」と「萌え」それぞれの定義には踏み込まず、
お題に忠実に、その『違い』を中心に追っかけてみる。

ではスタート。


まず、
「萌え」という言葉を使用できるのは全ての人間では無いことに注目したい。
例えば、神社の宮司とか大企業の部長とかタンカーの船長が
「萌え」という言葉を知っていたとしても、彼らが日常でそれを使う事はない。
あえて言えば若い世代、ないしはサブカルチャーを中心に使用される語なのだ。
いわゆる二次元萌え、だけでなく「廃墟萌え」「工場萌え」と使用される場合も同様。
少なくとも
萌えという語を使用するモードは社会の中心には位置していない。

①:「萌え」は万人が使用する記号ではない。
対して
②:「美」は一般的に万人に使用されていると信じられている
美が本当に普遍なのかどうかについては長々議論できるが、さておく。
ここでは少なくとも「萌え」よりも社会の中心に近い場所を割り当てられている
という事だけを問題にする。


「萌え」に限らず、
同一言語内の若者を中心とした限定的なコミュニティで使用される語はたくさんある。
「ヤバイ」「キモイ」「アツイ」などなど、枚挙に暇が無い。

「ヤバイ」「キモイ」「アツイ」、の三語を特に例にとると
どれも、一般的な語で置き換え可能に見える事に注目したい。
「あの映画がヤバイ」と「あの映画が面白い」
「あいつはキモイ」と「あいつは気味が悪い」
「このリーチはアツイ」と「このリーチは期待が高まる」
といった具合に。
どれも本質的には同じ事を言っている。
でもそれでも、これらの語を使用するモードの人にとっては、
「あの映画がヤバイ」「あいつはキモイ」「このリーチはアツイ」
と使用するのが正しいのだ。

さて、同じように
モナリザは美しい」という命題と同じ位
モナリザは萌える」という命題は正しい。

そう
誰がその語を使用しているのか、という問題を仮想的に抜きにすれば
③:「美しい」と「萌え」は交換可能である。
という点も重要になってきそうだ。

「美」と「萌え」は違うが、交換可能である。
交換して使用する人間と、しない人間がいる。
これはどういうことなのだろうか。

そもそも何の為にわざわざ交換して言い直さなきゃいけないのだろうか。
僕は交換それ自身に意味があるのではないかと思っている。

交換、というか交易、はそうしたものなのだ。
自分にとって、より価値があると思うものを比較的に価値が無いものと交換する。
そうして「自分にとって」の価値のストックを高めていく。
(自分にとって、をカッコでくくった理由については後述)

モナリザは美しい」という文をそのままにしておくこともできるが、
私、は、あえて、「モナリザは萌える」という語で使用する事を選択する事にする。
私はそうする事によってなんらかの価値を得られる。
それこそが、
「読者」にだけ与えられた特権なのだ。

レオナルドダヴィンチに読者を萌えさせるつもり等一切なかった事は断言できる。
でもそれでもモナリザから「萌え」を得る人間はいるのだ。
ただし、「美」という語と交換する事によって。

①に戻る、
①:「萌え」は万人が使用する記号ではない。
乱暴に言えば、万人にとっては価値が無いものから価値があるものを交換しているのだ。
なぜ価値があるのか?
それは『万人が使用していない』それ自身にある。
結論を先取りして言えば
④:「萌え」は「美」よりもパーソナルである。
という事だ。
萌え、の使用によって、その使用者は、美、の使用者よりも
より「自分のための」感想を得る事ができる。

萌え、は、美、と違う事それ自身に、にもかかわらず美と交換できる、事に価値があるのだ。

おぐくりに言ってしまえば、
現代とはパーソナル化を可能にしていく時代である。
僕らは他人と交わらずに生きていく事を可能な時代を手に入れた。
したがってパーソナルであればあるほど、(特に若者にとっては)良いとされる。
「萌え」という語がもてはやされるのにもこういう理由があるのではなかろうか。

ただし、
「萌え」という語は完全にパーソナルで無い(完全に「自分にとっての」語では無い)
モナリザはアッパッパザーンである」という文に意味はない。
アッパッパザーンが萌えと交換できないからだ。

完全に自分にしか通用しないわけではないが、万人には通用しない。限定的に通用する。
「萌え」はそういういい感じのポジションにたまたま平衡を得たにすぎない。

まとめて言えば
★「美」はユニバーサルで「萌え」はローカル

美がドルだとしたら、萌えはルーブルみたいなもん。
という事でここはひとつ。