つながらなさについて

子育てをすることは、
ある種自分自身がどうやって育てられたかを別な視点から追体験するコトでもあって、
どういう年齢/月齢で、どういうコトを「ダメ」と教わるのか
自分が育てる側の現場に入ってみてはじめてわかる。

例えば、歩き始めた息子の場合
お店で棚の商品をいじろうとしたら即座に
「ダメ!」 ザッツオール
理由とか説明しない、ダメだからダメ、というか理由を説明できっこない。
説明する時間も無ければ、息子が理解できっこない



僕が、
「お店の商品で遊んじゃダメ!」
と叱る時、僕は息子を、社会の常識、とつなげようとしている。

言葉は持たず、感覚と感情がすべての息子にとって
社会の常識、なんて今は幽霊のように存在が不確かだ。

けど、僕が彼のそばにたって、そういうルールを
「ダメ!」
という聴覚に訴える刺激に変える事で、彼も常識を体感する事ができる。

なにかのルールや価値観を誰かにつなげる、という作業の視点で
子育ては、比較的簡単な現場だ。

けど、
ほとんどの人が日々うごめく世界において、
大抵の現場はきわめて、つなげる、という作業が大変だ。


例えば、
「家族のために」
「社会のルールを守って」
「その場の空気を読んで」
「目上のものに従い」
「言われたことをきちんとやり」
「せっせと働く」
というルール=コードで働く大抵の年輩正社員は

「自分らしく」
「自由に」
「毎日を楽しく」
「イヤな事にはイヤと言い」
「古い価値観に縛られない」
というコードの若者と

しばしば激突し、激突するだけじゃなくて、
正規雇用/非正規雇用という利害関係の内に、死活問題に発展すらする。

つながらない

仕事、または家族内、さまざまな現場において、上記の二つのコードはつながらない。
端的には話はかみ合わないだろうし、他方では歩み寄る事すら出来ないだろう。

代表的な激突を出せば
前者は後者を「まっとうに生きろ」、後者は前者を「古い」
で相互を切り捨てられる。

個々の現場においては、
例えば、浮ついていた若者が、厳しい大工の棟梁に鍛えられて人間的に成長する
みたいな物語ももちろんあるだろうし、何個も例を挙げられるだろう。

けど、そういう小さい物語を何個敷き詰めたところで、
「古い」コードと「新しい」コードのつながらなさは、徹底的に埋められない。

もう、すごくわかりやすく言ってしまえば
全く違う世界に住んでいるので、共通に議論できる場が無いのだ。

例えば
「お店の商品で遊んではいけない」
みたいな点では意見は一致するだろうが、
そこから出発して、互いの生き方を認め合うまで到達することは直感的に無理だとわかる。


こうなってしまうのは考えてみれば当然で、

僕らは殆どの場合、似たコードを持った者同士で暮らすからだ。
代表例は、家族であり、また学校であり、そして職場である。

三田紀房がどれかのマンガで新入社員の入社は会社にとって
「赤ちゃん誕生である」と断言していたが言いえて妙だ。
新入社員がしばしば子ども扱いを受けるのも当然であって、
大人は新入社員を
「 「 「 「 「 「 社会の常識 」 」 」 」 」 」
に早くつなげてあげていけなければいけない。と奮起しているからだ。

面白いことにコードには、
外部の気温の影響をソフトに吸収して体温を一定に保つようなホメオスタシス機構がある。
つまり
異質な意見や衝撃を、ぐぐっとコードで解釈できる用に捉えなおし、
「だからあいつらは間違っていて、だから我々が正しい」
という点にまで即座に到達させる便利な機能がある。


先の、「古い価値観」は「かなり正しいが耳の痛い意見」を言っている若者をみたら
「そうやって騒ぐ奴ほど仕事が出来ない」という例を見つけ出しこの若者をしまうことが出来る。(おもしろい事に、現代の人口は多いので、幾らでもこういう例を発見できる)

「新しい価値観」は「かなり正しいが耳の痛い意見」を言っているオッサンをみたら、
「そうやって若者が過労死させられたり、会社が傾いたりする」例をゴマンと発見できる。
(おもしろい事に、現代の人口は多いので、幾らでもこういう例を発見できる)

「新しい」「古い」だけでなく、
「男の」「女の」
「日本の」「外国の」
「金持ちの」「低所得者の」
「勝ち組の」「負け組の」
「親の」「子どもの」
「経営者の」「労働者の」
「管理部門の」「営業部門の」
「製造の」「販売の」
「客の」「売り手の」
「役人の」「国民の」「政治家の」
「既婚の」「独身の」
「子持ちの」「子持ちでない」

コードはもうかなりの部分つながらない

くるくるとサンプルの提示を繰り返してしまっているが、

僕はこういうつながらなさが常々とっても残念でならない。

全員が合意できる抽象的な「中央知」 個々の現場においての最適解である「前線知」
というアプローチで解決への接近を試みたけど、部分的な分解しかできなかった。


仕方がないけど、
けど「つながらなさ」が問題である。
と言い出すことには意味があると思ってる。

なぜならば、問題の発見が問題の解決の大半を占めるからだ。

どっちが正しい、悪い、を言い出すやり方では、いつまでも現場は動かない。
まず「あ、これはつながらない」という形で一旦すべてを箱に入れることを提案する。

で、その次どうすればいいか、って疑問がたち現れるが、

一つはつながらなくても上手くやっていけるやり方を見つけることだ。
ただ、例えば年金問題のように、
新しい世代と古い世代がなんらかコンセンサスを取るべき待った無しの問題もある。

もう一つは、
全部を崩して徹底的につながれるコードで征服を行うことだ。
ただ、これまた80年代で終わってしまった手法だ。

上の二つの解決策は、どっちもパッと見有効そうにみえるからタチが悪い。
そして、前述も似たことを書いたが、局所では上手くいくのだ。
問題は大工の棟梁が日本中を走り回ってすべての若者を立ち直らせるなんて
現場では絶対不可能と言う事だ。

これらの解決策提案は余計つながらなさを悪化させてしまっていると言っていい。

だから、僕はもう、そのものズバリ
・ただ、つながらなさを徹底的に認めよう
という文をもう一回繰り返す。

違いを尊重する、って言うこなれた軽い意味ではない。

矛盾する言い方だけど
「つながらない」という事を相互に理解しているという点において「つながる」事がやっと出来る

で、そこから対話のコードを局所局所で作っていくしかない。
難しく言えば流転するコード。

解決はオープンエンドにして、