自由は与えることで与えられる

自由
って語が目に付くようになった。
例えば「表現の自由」または「(電力の)自由化」「貿易自由化」って表現を一日のなかのどこででもみかける事が出来る。

自由になりたい
と言う人、つぶやく人、叫ぶ人も多い。
それは2010年代の日本であっても、労働や抑圧やまたは恋愛的な辛みから自分は自由を奪われている。と感じる人は多いだろうなと想像できる。


僕が小さい頃は日本は「自由の側の国」だと教えられていた気がする。少なくともそんな気分の中で育った。
過去数百年くらい、歴史は「自由」に向かって進み続けて、現代の日本は「自由になった時代」
おおむねそういうストーリーが皆のコンセンサスで、でまあ実態も大体そんな所なんだろう。

こういう「自由な時代だよね」って合意の中で生きてるのに、なお
「でも自由じゃないよね」
っていわしめてしまうのは一体どういう行き方でここへ行き着くんだろう。

不自由さから自由になれない人になにか話をするつもりで書いてみる。

自由とは何か、という問いに対する答えのひとつに、
所有する事で自由になれる、という捉え方がある。
踏み込んで言えば自由とは所有することだ。

例えば、
お金持ちの人は、お金の心配をしなくていいのでお金から自由である。
お金持ちはお金を所有しているのでお金から自由と言える。
逆にお金を所有していない人は、お金の心配から逃れられないのでお金から自由ではない。

所有することで不自由さから逃れることが出来る
と置くとわかりやすい。

所有って何だ。
っていう事についても重要なので考えておく。

所有する人は、それを与える事が出来る。
逆に
与えられる人は、所有している人だ。
お金を所有していない人は、お金を人に与える事が出来る。
寄付って形かもしれないし、
そうでなくても仕事をしてくれた人に賃金という形で与える事ができるし
貸し付けるって形かもしれない。

口座にお金が入ってはいても、
それを他人にどんな形であれ与える事が出来ない人はお金を持っているとはいえない。

与えられる、じゃなくて、「捨てられる」でもいいじゃんって考え方もあろう。
でも「捨てられる」だけで「与えられない」人はやっぱり「所有してない」と僕は直感する。
それは、モノはその使用の中にその本質があって
捨てることはできるが使用することはできないモノは所有のカテゴリーには入れられない。
ただし「奪われる」は「与える」のカテゴリーに入る。これは重要なのでノートする。

所有についての深堀はまた後ほど戻ってくるとして、下のように書いてみる
権力を所有している人は、権力に抑圧されないという意味で権力から自由だ。
仕事を所有している人は、失業状態から逃れているという意味で自由だ。

こう書くと、はたと気づく
完全に自らの力だけで、権力や仕事を所有している人なんて現代にはいない。
自由な時代の不自由さとはそこから湧いてるんじゃないだろうかと一旦、直感する。

例えば
政治家の権力は選挙民からの承認が必要で
仕事は、雇用主または顧客からの承認が必要で
事業主は株主からの承認を必要とする。
前段のとおり「与えられる」事から所有の権利が発生するのだとしたら
僕らが所有していると思っているモノの殆どは「借りている」に過ぎないと言える。
借りているのだから、それを"また貸し"するのには困難が伴う。

この状況をくだけて言えば
しがらんでいる
自分の立場や毎日過ごしている時間は、だれか顔のない他人としがらんでいるので
究極的には自分のものに出来ない。

自分のモノでないから与えられない、
与えられないから自分のモノではない、
こういうモノばかりで自分の一日が出来上がったらそりゃあ不自由だろう。


話の入り口をひっくり返すようだけど
前段で出た"お金"ってのもまた、現代の通貨が金(キン)と兌換出来ないものである以上
実は為替レートとしがらんでいて、
円で幾ら所有していても、他の通貨に対して円が爆裂に切り下がったら文字通り紙くずになる。


ところで、自分のもののように見える肉体はとくに所有権があやふやだ。
例えば健康を所有し続けるのが難しいのは誰もが同意するだろう。
また僕らの所作や行動は現代的にデザインされていて、様々な制約がある。
それをやりだすと長くなるのでそれはさておき。

冒頭の、自由に向かってきたはずなのに自由じゃない感をどう捉えるか
とりあえずこの引っかかりに戻ってみる。
ぐるっと一周回れたと思うので、問題の級数を上げてみる。
ここでは、自由を所有することは出来るのか、って考えてみた。
つまり"自由から自由になることは出来るのか"という問い方だ。

ここまでの話の組み立て方を適用すれば
自由を人に与えることはできるのか
って問いだ。

自由を売ることはできる。雇用される事がそれだ。
僕が商人の端くれだからそう思うのかもしれないけど、売買も立派な互譲行為で、なんら恥じること無い「与える」行為だ。

自由でない、と感じる人に
「いや君は自由だ」
と信じさせる事が出来る人というのはどうだろう。
これも自由の譲与と言える。

法による支配を受けることで国民は自由になるって考え方もそれこそ中世からある。
この文を分解すると長くなるし僕には無理そうなのででここではさておく。

とにかくポイントは、おそらくこの調子で幾らでも例示できるって琴田。
その例の中身を考えるのも大事だけど
結論を引き寄せて言えば
「自由を人に与えることはできる」
という信念それ自身が
不自由さからの脱出それそのものになっている。という考え方だ。

自由は与える事で与えられる。 複雑に言うとこういう事だけど、
もっと平坦にもできる、
「自由は個人に備わるものではなくて、他人との関わりの中で始めて生まれる」
と置ける。

対偶を考えてみればよりわかりやすくなる。
他人との関わりがなければ、自由を備えた個人は存在し得ない。
または
人間一人だけで自由にはなれない、自分が自由を与える他者がいて初めて自分の自由も成り立つ。
とこうなる。

この地点に立っていれば、
色々と便利で沢山の矛盾を超えていくことができるのでお勧めである。
例えば、自由同士が衝突するケース(表現の自由vs批判の自由)
も二つの自由は独立しておらず相互に互譲しあって成り立つものと考え始めれば
衝突はむしろあって当たり前と認められる。
すくなくとも「自由が衝突すること自体がおかしい」という思考停止からはのがれられる。

また
「自由化の弊害」みたいな言葉にも惑わされない。
自由はどこからか自分でないところから来るモノとおいて
自由の代わりになにを譲与しているか。または互譲するのかわかるようになる。

踏み込んで言えば、
自分は自由をあらかじめ持っているわけではない、と認めることでむしろ自由になれる
自由から自由になる。
には「どうすれば自分は自由を他人に与えられるだろうか」という問いから出発すればいい。

厄介なことに
現代の合意は「人間は自然状態で自由である」というような前近代につくられた前提から出発している事だ。
その時代のものを考える人たちは生まれたときから自然な状態ではなく、かつ不自由を感じていたので
自然な状態であれば自由である、と考え始めたのも無理はない。
そのあと紆余曲折があったせいかもしれないけど
「とにもかくにもあなたはまずもって生まれながらに個人として自由である」
という教えられ方が現代にあるのは残念でならない。

ヘンなことを言っているのは百も承知だけど、
自由の概念のそもそもの開始点に無理があるのだからしかたない。

とりあえずここまで