移動することについて

富士山は三角形で想起されることが多いけど
実は西側にコブのようなもりあがりがある、宝永山という寄生火山らしい。

静岡から東京にお嫁に来たある女性が
「生まれてからずっと、宝永山は富士山の右にあると思ってた
東京に来てから、富士の見える晴れた日に宝永山が左にあるのを見て
自分がお嫁にきたのを実感した」
と言っていたのを聞いた。

富士の西に住んでいた人が富士の東に来たのだから
宝永山の見え方がかわるのは当たり前だけど
面白いのはそれを「見た」という経験を通さないと移動の実感がわかないということだ。


僕たちは移動する。

西から東、北から南
なんてのは移動の一形態でしかない。

都市から郊外へ、
家から職場へ、
職場から家へ、
日常から観光地へ、
港から港へ
祖国から戦場へ、

自分の足で、もしくは運ばれて、
生活のために、もしくは目的をもたず、ただ移動するために移動することもある。

あまりにも素朴で地味であたりまえすぎる
移動
についてその周辺をぐるぐる回ってみたい。

子供の頃、イギリスの実家に帰ったときには
夜中に起きて窓の外を眺めて日本とあまりに違う幻想的な光景を楽しんでいた。

同じ夜、同じ地球なのに、日本と全く違う光景のもっとも大きな理由は
街灯だった。
日本は全国どこに言っても街灯の照らす光は白だ。
国交省とかがそう決めているのだろう。

一方、イギリスをはじめ多くの国では街灯は黄色く、ないしオレンジに光る。
コスト的な問題とか好み的な問題らしい。

東京でも飯倉片町のロシア大使館の近くを通りがかると
日本であって、日本で無い土地を照らすオレンジの街灯が見られる。
ちょっと非日常感があるのでお試しあれ。


こんな風に、
僕らが土地に対してもっている肌触りというか常識は
しばしば移動によって裏返される。


そもそも僕らはあまり長い距離を移動できるようにデザインされた種ではない。
一般人が大陸を跳び越すような移動をするようになったのはここ100年だ。

だから人間はどうしたって住んでいる土地に固定される。

こんなことを言うと誤解されるが、
僕みたいな商社マンがどうして経済上必要なのかと言えば
端的には、
日常的に長い距離を移動したり新しい土地に行く事を厭わない
特殊と呼んで差し支えない能力というか資質による所が大きい。
元来、商人の利益の源泉は移動なんです。

商社マンも含めて、
日本人は一生にどれくらいの移動をするのだろう。
そしてなんのためだろう。

昔は、家族と言うものは土地とともにあった。
結婚に際して起こる移動は、
大名娘の輿入れみたいな例を除いて
基本的には村のあちらからこちらへ、よくて一山向こうの村へ
そんなもんであって、それこそスープの冷めない距離分しか移動しなかったんじゃないかな。

宝永山が右から左に動くような嫁入りなんて100年の中に数えるほどしかなかったろう。

けど現代にあって、
家族は移動の制約として前景化はしていない。
家族がどこへいようと、僕たちはどこへ住んでもいい。という事になっている。

が、それでもやはり
自分の出身する家庭のある土地というのは
地図の中に一つのアンカーを打ち込む。
良いか悪いかはさておいて
実家/家からどれだけ離れているか、が自分の今いる土地を計る尺度になる。
それは順列的な関係だ。
そしてきわめてパーソナルな評価軸だ。

本来、平面的な広がりを持つ地図の中に
一次元的な方向が生まれる。

これはちょっと凄い事だと思うのです。

嫁入りのような大げさなケースでなくても
通学、通勤、入学、就職、異動。
そのすべては「家」というアンカーから無数の方向に伸びる一本の線を
昇ったり下ったりという形で表現される。

そしてこのアンカーは多様な形で参照される。
例えば前述の街灯の色がそれだ。
子供の僕にも「街灯は白」というアンカーがあって
それとの比較で「オレンジ」の街灯に興奮を覚えたわけだ。

きわめて当然の事を言っているようだけど、
意識と魂をパッケージしてふらふらうろつく身体が
物質的な束縛を離れてなお、
自分の元居た場と見えない線で繋がるってのは、
すっごくスピリチュアルですらあるとも思ってしまう。
「土地の肉体化」と言っても過言じゃない。

結論へここで飛躍するけど
僕は
移動とは食事
ではないかと見ている。
食いしん坊万歳の話をしたいわけではなく。

僕の身体は、実は一部だ。
僕の本来的な体は家にあって、
二本足をもったこの肉と水のパックは実は家の長く伸びた腕にすぎない

外食をはじめとする生活サービスが充実し、
自炊すらする必要の無い、このなんでも消費できる現代にあって
それでもなお
「住民票」が必要なのはここに理由がある。

考えても見ればいい、
毎日住む場所が変わる事の何に僕らは不自由するだろう
金の単位を持って移動を繰り返し、その日に必要なものだけをその日に使い尽くす
そんな生活も可能なはずだ。

僕らは
○「どこへでも好きな場所へ住む」居住権を所有しているが
●「どこへも住まない」という権利を剥奪されている。

繰り返しになりますが
家が僕らの一部なんじゃない
僕らが家の一部なのだ。

家系や、地元でなくて
もっと観念的な家をここでは指す。

20年で価値の大半が失われるような不動産が
資産として興味を集める理由もここにある。

特に新築に対する妄信的な評価も同根だ。

・僕らは『自分の』家にしか住めない。
・「誰かの」家に住む事は出来ない。

少なくとも購入時点では中古の家は、自分の家で無いだけでなく、
誰かの家と信じる理由が僕らにはある。

前段で、移動とは食事だと言った。
家のために移動している、という意味での食事というのがこの文の一次的な分解だけど

もうすこし踏み込んで言えば、
移動それ自体が、家を家たらしめており
家から一歩もでなければ、それは家と呼べない。
ここでもやはり、背反の事物が、事物を正にする雛形の仕組みが出てくる。

引きこもりの人は
家にしか居場所がないから家からでないわけじゃない。
移動しない事によって
家を家ではない別な何かに解体しようとしているのではないかとすら僕は思う。

家は世界の中にあるから家なのであって
家が世界であったらそれはもう家ではない。

引きこもりの引きこもり行動を
家に対する罰を下している、とみてもおおよそ間違いではないんじゃないかな。

そんなことはさておいて
僕らは毎日移動する。

多分。帰るために移動している。