『格差社会』を供養する

サイボーグ
と言えば、僕が子供の頃でもキラメキを持った言葉だった。
サイボーグ009は物心ついた頃には古典だったけれども
少年雑誌に載るバトル漫画にはかならず一人サイボーグキャラが敵味方問わずいた。

それがいまじゃどうだ。
サイボーグ
ていう語をいまどきの若者は知っているのか。

2000年を過ぎた頃からか
サイボーグという語はいつの間にか背景になってる。
物語内で、だれかしらの肉体が機械を媒介としているのはもはや前提であって
僕たちはサイボーグという語を意識することなくその物語的機能だけをエンジョイできる。

このように
語は消費される。
最近だと「格差社会」が稀に見るハイペースで消費されたと僕はみている。

また、言説のほうでは
2000年代後半のアメリカは「ブッシュは馬鹿」という批判すら消費しつくされてしまった感がある。

「ブッシュ批判も」それはそれで分析したいけど割愛して
ここでは「格差社会」を弔いたいと思う。

これは「格差」の解消された事を祝福しようとかそんなんじゃなくて
格差社会」という語が立ち現れて消えていった
その過程を一つの観察に値する現象として捉えてみたいという姿勢だ。

だから
格差があったのか、なかったのか、なんてのは問題じゃない。
多分それに答えはでない。
しかし
格差社会」という語があって、それがもうない。という事だけはたしか。
語がない
という言い方は実は少し不遜で。
語がなくなることは決してない。(なぜなら初めから語は実体を持たないから)
難しくいうと、語のモメンタムが失われたという事で
簡単に言えば、「格差社会」って言う語に「今更」感がついてしまった。
てのはどういう事なのか。
という問題だ。


だいたい、
社会のありようを現す語が数年で消えるってのは相当凄い
例えば
原始社会
王政
封建主義
共和制
共産主義
という社会のありようがあったことを僕らは事実として捉えている。
なんで
格差社会
だけ100年後の教科書に載るまで持ちこたえられなかったのか。

地図を作る人は土地を元に地図をつくるので何人が何百回ためしても、
基本的には出来上がる地図は全く同じものになる。

どうして社会批評だけはこれと同じ事をできないのか。
地図を作るたび違う結果が出る地図を地図として用いる事は出来ない。

もう凄く簡単に言ってしまえば
僕らはこの現代が
●どれだけヤバイのか
を説明する語を見つけられていないのだ。

目下インテリ風の世界で人気のあるのは
アントニオネグリのようで、彼は「 《帝国》 」と括弧をつけてこの世界の狡知を警鐘した。
逆に言えば括弧をつかって
片方だけを縛って他方をルースにしておくようなやり方でしか表現できないのだ。

( 《帝国》の考え方はここでは説明しないけど
映画マトリックスの権力装置をイメージするとわかりやすい)

また、
宮台真司は著書「日本の難点」において
現代を「底の抜けた社会」と言った。(厳密には宮台が言ったのではなく引用)
救いようの無さとややこしさを表現する言い方としていい線いってる、というのが素朴な感想
でも So What?の世界をでない。

つまり現代のヤバさをあらわす語の決定版はココまでの所ない。

さて「格差社会」に話を戻す。
見ようによってはこの語は実に良く出来ていて
すくなくとも一定期間、人口に浸透する資格を十分に備えていた。

何が良く出来ているのかと言えば、
その身近に引き寄せたときのイメージのしやすさである。

例えば、僕はマンションの2LDKに住んでいるが、隣の学生さんはワンルームだ。
隣の学生さんは「お隣さんと格差がある」と言い出す正当な権利がある。

僕のお客さんは僕に我侭を言う権利があるが、
僕はお客さんに我侭を言う権利がない。
これも権力による格差だ。

もちろん前段のようなことを本気で口に出す輩はいないが
すくなくとも「格差」という語の指し示す意味の中に
こういう平均毎時5回は感じるやるせなさを含んでしまう事はできる。

つまりそういう事なんじゃないかな。

要は
・溜飲
自分よりもええカッコしている奴に対し、攻撃を行う視座をカチッと定めるために、
なんらか巨大な装置が作用している事を示す語が行き渡っていると都合が良くて
格差社会」はそこにビシッとはまった。

あまりにも単純でわかり安すぎる解で恐縮だけど
深遠で含蓄のあるものが常に真実とは限らない。

あと、挑発的な事に関しても、僭越であると言っておく事にする。

これは思考実験だけど、
先ほども出てきた映画マトリックスが国民的人気映画になっていたら
『昨今のマトリックスに支配された社会についてどう思うか首相の見解を聞きたい』
なんて野党による国会質疑があってもおかしくなかったはずだ。
多分この言い方の方がまだしっくりくる。

誤解の無いように言っておきたいけど
別に格差社会を流行らそうとした闇の勢力があるわけじゃなくて
「草食系男子」とおなじで、なんとなく、使いやすい、と感じる人が多だっただけの話。
広告の世界で言う「シヅル感」みたいなもんか?


話は飛ぶけど、
分子や遺伝子を操作できるこの現代にあって
僕らはこと社会批評に関してはびっくりするほど使い勝手のよい要素技術をもっていない
というのが僕の立ち位置だ。

そんなわけで、同じ土地をみているのに複数の異なった地図ができるような有様になる。
ただし
現代というのは極論すれば「人口のものすごく多い19世紀」に過ぎないゆえに
その代わりに100万通りの発話が同時刻に発生可能という性質をもっている。
だから、
格差社会」という語が反復使用されればされるほど
それがどれ位人口に刺さるかのテストがハイスピードに実施でき。
少なくとも一定期間においては、脅威の説明能力を発揮できる事になる。

つまり、下手な鉄砲も数うちゃあたるという事。

多分いまごろこの世界を中央から裏返すような言説がどこかで生まれている。
来週にはそれが人口に一気に浸透しているかもしれない
しないかもしれない。

それは、浸透しても「格差社会」と同じように数年で消費されるかもしれない
もしくはビートルズの曲のように、ストーカー的な執念深さで時代を追い回すかもしれない。

まあまとめに入るとだ、
あっという間に飽きられてしまう、その程度の言説でも
スパイクのように人々の口に一気に上って、そして一気にダウントーンする。


最後に
冒頭のサイボーグのように『格差社会』も背景に溶け込んだのかどうかだけ考えておく。
答えは断固Noだ。

背景に溶け込んだのではなく、
皆さんご存知のように人類の歴史はたゆまぬ階級闘争の産物なので
むしろ背景の骨董品を前景化して、また元の場所にしまっただけに過ぎない。
かくして闘争は続く。ヒャッハー